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小説 「長い旅路」 17

17.師事

 ハウスキーパーの藤森さんが休みの日は、先生が家事をして、俺がそれを手伝うこともあった。
 その日は、すごく天気が良くて、先生と2人で布団を干したり、シーツや枕カバーを洗って干したりしていた。
 
 作業が一段落して、和室の畳の上で胡座をかいて休んでいた先生の側に、俺は正座した。
 志願したいことがあった。
「先生……僕を、弟子にしてください」
「私は、弟子なんて取らないよ?」
「僕も、吉岡先生のように……なりたいのです」
「作家になりたいのかい?」
「…………僕も、先生のように、自分らしく、堂々と……生きられるように、なりたいのです」
「自分らしく、ねぇ……」
先生は、しばらく腕を組んでいたが、やがて片方の手を顎に添えた。何かを考え込むような、男性的な仕草である。
 俺は、知り合ってからずっと気になっていた事を、意を決して尋ねた。
「あの……あの…………間違っていたら、すごく失礼なのですが……先生は……『FtM』で『ゲイ』の方、では、ないですか?」
「FtM」というのは「Female to Male(女性から男性へ)」の略……つまり、医学的には「女性」の体をしているが、性自認が「男性」である人のことを指す。要するに、心と体の性が一致しない「トランスジェンダー」の一種である。
 俺の直感が正しければ、この先生の性自認は「女性」ではない。だが、それでも先生には旦那さんが居る。身体的な状況はどうであれ、心は男性の同性愛者(ゲイ)か、あるいは両性愛者(バイセクシャル)である可能性が高い。
 この質問を「セクハラだ」と責められたら、俺はこの家を出ていく。だが、もし先生が「ゲイ」なら……「俺もです」と、言ってしまいたい。
「違うよ。……あえて言うなら、私は【ノンバイナリー ジェンダー】で【全性愛者】だね。自分を『女性』とも『男性』とも思わないし……相手の性に関係なく、恋愛感情を抱くよ。『この人と、一緒に暮らしたい!』と思う時に……相手の性別やセクシャリティーなんて、まったく気にしないな。
 今は、たまたま『夫』が居るけれども……偶然だね。彼が男性だから、選んだわけではないよ」
「そう、でしたか……。失礼しました……」
「いえいえ」
互いに、成人らしく礼をする。
 俺が思っていたのとは、違った。だが「ストレートではない」ということに違いはなかった。
「……ひょっとして、君は『ゲイ』なのかな?」
「そうです……」
「なるほど」
先生は、あまりにも冷静で、感情が読めない。まるで……キャリアの長い精神科医だ。
「僕が……僕が、ずっと、悠さんと同じ部屋で寝ていたこと……不快に思われますか?」
「まさか。あの部屋割りを決めたのは、私だよ?」
「あ、あ……ありがとう、ございます……」
反射的に、床に手を着いて頭を下げる。身体が震える。
「頭を下げるような事かい?」
頭を上げたが、震えが止まらない。
「僕は、僕は…………ずっと、ゲ、ゲイであることを理由に……会社や、町で、差別を受けて……殺されそうに、なったことも、あって……」
ろくでもない記憶の数々が蘇り、呼吸が荒くなっていく。先生は腰を上げて俺の隣に移動し、肩に手を添えてくれた。「大丈夫だよ」と、言われた気がした。
「僕は、もう……自分が、男性を、好きだと、口に出したら……殺されて、しまうような、気がしていて……」
先生は、がっしりと肩を抱いてくれた。
「そんなことで、殺すような奴こそ【罪人】だよ。君が同性を好きでも……断じて罪ではないし、何も『おかしく』は ない」
この先生には【良識】がある。
「僕は、その……まだ、それを……医者にも……誰にも、言えなくて……」
「……差別のことをかい?」
「そ、そうです…………僕は、過労で、おかしくなったことに、なっていて……父は、それを、『情けない』と……全否定で…………でも、でも、僕は……ほ、ほ……ほん……!」
吐き気で、続きが言えない。
(本当は……ずっと、差別的な嫌がらせを受けて……それを苦に、自死すら考えて……!!)
 先生は、一旦は俺の身体から手を離して、和室に置きっぱなしだったバケツを手渡してくれた後、背中をさすってくれた。
「無理はしなくていい……まずは落ち着いて……」
バケツの中に、少しだけ吐いた。それでも、先生は全く動じない。
「前にも言ったけれども……私は、君の生命を奪ったりはしないよ。家から追い出そうとも思わない。……君の身体が良くなるまで、ご実家に帰すつもりは無い」
「僕は……!あの……ご、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
バケツの中に涙をぼろぼろ零しながら、震えだす。
「謝ることじゃない……大丈夫だよ。私は気にしない……」
呼吸が落ち着くまで、先生は背中をさすっていてくれた。やがて、淡々と布団を敷き始めた。(ベランダで干している冬物とは別の、来客用だ。)
 俺は、バケツを持ってトイレに行き、中身の後始末をした。浴室で綺麗に洗ったバケツを手に、和室に戻った。先生は、待っていてくれた。
「あ、あの……このことは、悠さんには……」
「私からは、言わないよ」
「すみません……」
「少し、寝たほうがいい。……顔色が良くないから」
「はい……」


 少しだけ仮眠を取ってから昼食を食べた後、俺は先生に不躾な質問のことを詫びた。
「今朝……本当に、すみませんでした。失礼なことを訊いて……」
「私は気にしていないよ。君は誠実だもの」
何も言えなかった。
「……もし、まだまだ打ち明けたいことがあって……それで、君が楽になれるなら……何でも言ってくれよ。私なんぞで良ければ」
打ち明けたいことは……ある。先生と2人きりであるうちに、話してしまいたい。
「もちろん、強要はしないよ」
力無く「はい……」と言うので精一杯だった。

 俺は黙々と2人分の食器を洗った後、再び同じ座布団に戻った。大切な話をする時は、必ず正座をする。
 先生は、ずっと同じ場所に悠然と座って、録画したテレビ番組の整理をしているようだった。黙々とリモコンを操作している。
「先生は……『金剛 たくみ』という俳優を、ご存知ですか?」
「存在くらいは、知ってるよ。……確か、彼もゲイだよね?」
「そうです……」
よし。この人になら、言える。
「……僕は、学生の頃、彼と暮らしていました」
「なんと……!」
先生の手が止まった。
「彼がテレビに出て、堂々とカミングアウトをして、活動して……それによって、僕もゲイであることが、会社や大学の人間に、知られてしまって……」
「なるほど……。ある種の『アウティング』みたいなものだねぇ」
やはり、先生は「話の解る人」である。
「彼に、罪は無いのですが……田舎町では『芸能人の元彼』は、すごく目立ってしまって……」
「そりゃあ、そうなるよね……」
先生は、リモコンを食卓に置いて、完全に「話を聴く体勢」に入ってくれている。
「でも……なかなか辞められない、ブラック企業で……転職も、妨害されて……それなのに、職場では『ホモ野郎』だからと、ずっと嫌がらせを受けて……仕事も、かなり押しつけられて……」
 自分が吐き出している言葉を聴きながら、当時の自分の本来の望みは「自死」ではなく「転職」であったことを思い出した。
「当時の僕は……【退職代行】というものの、存在を知らなくて……もう『辞めるには、仕事が出来ない身体にするしかない』と思って…………自分で、農薬を飲みました」
 先生は、純粋に驚きを露わにした。
「よく……死ななかったねぇ!?」
「自分でも……そう思います」
 しばらく黙っていた先生は「よく、頑張った」と言って、手を握ってくれた。
「よくぞ、生きて……ここに来た」
至って真剣な顔で、それでも、俺の【生存】を喜ぶかのような「笑顔」である。目には、涙が光っている気がした。
「よく帰ってきた……よく生きた。……よく、話してくれた」
何度でも、肩を抱き、背中を叩き、最後には抱き寄せて、誉め称えてくれた。
 母の他に、そんなことをしてくれた人は居ない。……しかし、母でさえ、俺がゲイだとは知らないはずだ。
 ゲイであることを知った上で、受け容れてくれた人など……そうそう居ない。
「よく頑張った……」
先生は、何度でも誉めてくれる。俺は、涙が止まらない。
「先生。僕は……生きていても、いいですか?」
「もちろん」
先生の返答は力強くて、底知れない勇気をもらった。
 この先生も、若い頃には「何か」があったに違いない。俺よりも20歳近く歳上だし、この先生が20代だった頃は……「同性愛」や「性別違和」というものは、世界的にも【精神疾患】に分類されていたはずだ。
 それでも……先生は、この年齢まで、逞しく生きてきた。そして、今は素敵なパートナーと共に、幸せに暮らしている。
 俺は、出来ることなら、この人のようになりたい。だからこそ「弟子にしてください」と、申し出たのである。


 先生は、原稿の彩色を進める傍ら、よく俺を散歩やオセロの勝負に誘ってくれる。
 そこで聴かせていただける話は、玄さんのそれより遥かに濃くて、壮大で……まるで、総てを悟りきった老齢の高僧と話しているような気分になる。全てを書き留めて編纂へんさんすれば、複数冊の本になる……というだけではなく、新しい【宗教】さえ興せそうな気がしてしまう。(もちろん、無許可で そんなことはしない。)
 そして、やはり この先生にも「セクシャリティーを理由とした差別」を受けた経験があり、それが【心的外傷】になっていて……未だに「フラッシュバック」や「幻聴」があるという。それによって取り乱し、手近な物品や人物(多くは悠さん)に当たってしまうことが多々あって、先生ご自身は、それについて「DVとしか言いようがない」として、深く反省している。だが、やはり それを「無くす」というのは、難しいようだ。(だからこそ、この世には『精神科』が存在し、治療薬が流通しているのだ。)
 先生は、無闇に人を傷つけないため、あるいは自身の健康管理のため、日頃から留意していることを、いくつも教えてくれた。
 先生は「弟子など取らない」と言ったが、俺はもう、すっかり「師事している」気でいる。
 自分と同じ道の上で、自分より、ずっと先を歩く人……心から敬い、教えを乞うべき【先人】であると、俺は感じている。


次のエピソード
【18.暴発】
https://note.com/mokkei4486/n/n9a912f13f7c8

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