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小説 「長い旅路」 18

18.暴発

 間借りする間、俺は先生のご友人のマグカップを使わせてもらうことになっていた。先生が「岩くん」と呼んで慕うその人は、かつての担当編集者だそうだ。
 担当だった頃は、打合せ等のため頻繁に出入りしていたようで、この家には彼専用の食器と、枕がある。いつ倒れてもおかしくないほど多忙を極めている彼は、この家に来たら、俺が今お借りしている和室で仮眠を取ることも多かったのだという。
 彼は、吉岡先生をプロデビューに導いた【恩人】でもあるそうで、先生の夫の悠さんも、彼を「哲朗さん」と呼んで慕っている。
 俺はまだ、その人に会ったことが無い。


 その日は、早朝から激しい雨が降っていた。先生は日課の散歩を諦めて、朝からずっと3階の仕事部屋に篭っていた。
 悠さんは仕事が休みで、いつものようにリビングでテレビを見ながら、スマホでパズルゲームをしていた。俺も、同じ部屋で同じゲームをする気でいた。

 俺は台所で「哲朗さん」の黒いマグカップに茶を淹れて、スマホを置いていた食卓に向かおうとした。
 飲み物を入れたカップを持って歩く自分の手足が目に入り、唐突に「過去の記憶」が蘇った。
(“辞めろよ、気持ち悪い……”)
(“毎日、課長と風呂場で何してんの?”)
(“浴場があるから、この会社に来たんだろ?”)
(“男の裸、見放題だもんね?”)
過去に言われた言葉が、頭の中で響く。クスクス笑う声も聴こえてくる。

 目の前の景色が、何年も前に辞めたあの養鶏場の食堂に変わった気がした。長いサービス残業の合間に、食堂の片隅でコーヒーや紅茶を淹れていた頃の記憶が、意識を支配しつつあった。
 唐突に、明らかにヒトではない、得体の知れない黒い影のような化け物が、俺に近寄ってきて、悪賢くニヤリと笑った。
 反射的に、手の中のカップを投げつけた。
 カップは化け物の身体をすり抜け、壁に当たって割れた気がする。
 心臓が、口から出そうなほど、激しく動いている。身体は、明らかに【動転】している。

 悍ましい化け物は消えたが、代わりに近寄ってきた人型の影は、俺を死骸保管庫に閉じ込めた浦田の声をしていた。やがて、それは浦田の姿にしか見えなくなった。
(“おまえ、まだ生きてんの?”)
俺の殺害を図ったクズが、俺が生きていることを知り、鼻で笑った。
 俺は、脊髄反射的にその顔面を殴った。幻覚にしては、生々しい感触が、はっきりと在る。殴った拳が痛む。
 浦田は、よろめいてから鼻を拭う。手に付着した血を見て、怒りだす。
(“何すんだ!!”)
「おまえこそ、俺に何をした!!」
俺は勢いのまま掴みかかり、あの時のことについて、詰め寄った。耐え難い【憤り】が、俺の「理性」を消し去っていた。
「わざと、扉を閉めただろ!!?……人殺しめ!!……『ブタ箱』に入れよ!!……地獄に落ちろ!!!」
(“何の話だ!!”)
「とぼけんなよ、クズ!!!」
俺は容赦なく罵声を浴びせ、手首を巻いて、胸ぐらを締め上げる。
 向こうも、結構な力で こちらの手首を掴んでくる。……しかし、向こうは何故か、右手しか使わない。
 いっそのこと首を締めて殺してやろうかと思った瞬間、腹に膝蹴りを食らった。体勢を立て直す前に左腕を掴まれ、体の後ろ側で、ばっちり関節技を決められた。
「ぐっ……!!」
(“おまえ……何が見えてるんだよ……!?”)
右腕は自由だが、下手に動けば、左の肘か肩の関節が外れそうだ。
「目を覚ませ!!……和真!!」

 その声は、浦田の声ではなかった。
「和真!!」
大声で、改めて呼びかけられた。悠さんの声だった。
 足元の床に、血が滴っている。
 すぐ近くで、荒々しい息遣いが聞こえる。
「おまえ……どこに居るつもりだ!?」
俺を取り押さえているのは、彼だ。
 俺が実際に殴ったのは……悠さんだ。
「ご……ごめんなさい……すみません……俺、俺、もう……」
何を言えばいいのか解らない。気を失いそうなほど目眩がして、脚が震えた。
 悠さんは、腕を離してくれた。俺はその場に膝から崩れ落ちた。
 彼は、荒々しい所作で俺の真正面の床にティッシュの箱を放ってから、血が出ている鼻の穴にティッシュをねじ込みながら、箱の近くに腰を降ろした。
「目が覚めたか、コラ……!」
鼻の上部を強く摘んで、止血を試みているようだ。彼が着ている長袖のTシャツは、血だらけだ。
 俺は、何度も「すみません、すみません……」と詫びながら、彼が持ってきた箱からティッシュを取り出して、床の血を拭く。手が、震える。
「それが終わったら、あっちを片付けろよ!」
彼が荒っぽく左の袖を振って示した場所では、マグカップが無残に割れて、床には茶の「溜まり」が出来ている。
 幻覚に驚いた俺が、壁に投げつけて、割ったのだ……。
「申し訳ありませんでした!!」
それしか言えない。
 詫びながら、俺は、土下座をした。
「まったく同じやつを買ってこい。おまえの金で……!」
「は、はい!」
 俺は、急いで1階から雑巾を5枚ほど持ってきた。まだ鼻血が止まっていないはずの悠さんが、ベランダに在った ちり取りを中に入れて、「使え」と言って手渡してくれた。その手も、血だらけだ。
「台所に、ゴミ袋があるから……破片は、透明な袋に入れろ。月2回だけ『われもの』の収集があるんだ……」
「はい!」
 雑巾に茶を吸わせてから、言われた通りに破片をちり取りで掬い上げ、探し出してきたビニール袋に入れる。
 割れたカップの、持ち手の部分だけは、同じ物を買うために、綺麗に拭いてから店に持って行くことにした。
 床と、壁も拭いたら、悠さんに断ってから家を出た。彼は、割れたカップが どこのホームセンターで買った物であるかを教えてくれた。

 土砂降りの中、傘をさして駅に向かった。
 スマホで場所と行き方を調べて、教わったホームセンターに行くと、同じカップは簡単に見つけられた。


 ずぶ濡れに なりながら家に戻り、玄関で出迎えてくれた先生に、マグカップの箱が入ったレジ袋を差し出した。受け取ってもらえたら、出来る限り大きな声で「申し訳ありませんでした!」と言って、頭を下げた。
「同じの、見つかった?」
「は、はい……」
「次から、気をつけなよ」
「本当に、すみませんでした……」
「足を拭いてから、上がってもらおうかな。……少し待ってて」
先生は一切 叱責をせず、脱衣所からバスタオルを持ってきてくれた。
「早く着替えておいで。風邪をひくよ」
「あの……悠さんは……?」
「上で、テレビを観てるよ」
「僕……今日、悠さんを……」
「大丈夫だよ。私で慣れてるから」
(そういう問題では、ありません……)
 俺が黙り込んでいると、先生は再び「着替えておいで」と言ってくれた。

 ズボンと靴下を替えたら、悠さんのもとへ直行した。きちんと正座をして、何度も「申し訳ありませんでした」と言いながら、頭を下げた。
 悠さんは「もういいよ」「過ぎたことだ」と、あっさりと赦してくれた。
「……何か、おっかない幻でも見たか?」
何と答えるべきか、非常に迷った。
「隠すことは、ねぇよ。その手の話は慣れっこだ。俺が、誰と住んでると思う?」
彼はテレビを消し、食卓に片肘を置いた。
 彼は、職業として脳の研究をしていた人の夫だ。幻覚や幻聴の話を聴いて、驚いたり、差別的な感情を抱いたりする人ではないのだろう。何より、事実として幻聴に苛まれ続けている先生と、何年も一緒に暮らしているのだ。
 俺は、正直に白状することにした。
「昔、働いていた会社で……よく……遅くまで残業をしていて……そういう時、いつもマグカップで何か飲んでいて…………その時のことが、ふっと……」
「フラッシュバックか?」
「たぶん、そうです……」
「パワハラの記憶か?」
「まぁ……そうですね。パワハラとか……陰湿な、虐めとか……」
「虐められてたのか?」
本当は「虐め」では済まない。犯罪だ。
「すごく、くだらないのですが……過去に、どういう人と付き合っていたを、理由に……すごく、馬鹿にされて……毎日、残業を、せざるを得なくなって……」
「はぁ!?何だ、それ!?……そんなもん、仕事と関係なくね!?」
「関係ないんですが……彼らには大事おおごとで……」
「馬鹿だろ!!…………つーかさ、なんでそんなことがバレたんだ?社内恋愛だったのか?」
「だ、大学の後輩が……バラして……」
「はぁ!? つーことは、あれか?大学ん時の彼女の話が、理由!?……マジ、馬鹿だな!!……辞めて正解だ!そんな幼稚な会社!!」
 彼は、俺のことを「異性愛者」だと思っているようだ。別に、今それを訂正しようとは思わない。
 黙り込んでいたら、先生が「昼ごはんは、まだだよね?」と言い、食事を用意してくれた。

 俺が昼食を食べている すぐ近くで、悠さんは平然とゲームをしていた。
 悠さんは相当な「ゲーム好き」のようだが、この家にゲーム機は無い。彼は、もっぱらスマホでゲームをする。片手で操作できるということが、重要なのだろう。
 俺としては……今、彼に合わせる顔が無い。
 しかし、彼は俺を厭わない。


 その後も、彼は何事も無かったかのように、再び優しく接してくれた。
 頭が上がらなかった。



 殴ってしまってから、約一週間後。先生が散歩に出かけている間に、悠さんが資料室を覗きに来た。その時、俺はノートに短編小説の「書き写し」をしていた。
「よう」
彼は、休日だ。
「……体調、どうだ?」
今日は比較的、良いほうだ。腹の調子が良い。
「今日は、動物園行かないのか?」
「い、い、い……」
行きません、という日本語が、出てこない。 
 首を横に振る。
「俺と、買い物行かねーか?」
「え……?」
「昼間に、部屋の中ばっかり、居ないほうがいいんだ。天気が良いなら……少しは、出歩いたほうが良い」
彼も、先生から【太陽】の重要性を教わっているのだろう。
「俺、新しい靴が欲しいんだよ」


 先日、土砂降りの中マグカップを買いに行ったあのホームセンターの近くに大きなスポーツ用品店があって、彼はそこで、入店するなり迷わずダイヤル式のランニングシューズの売り場に直行した。俺は、黙って ついていく。
 棚に並んだ商品を見ながら、彼は「俺、靴ひも苦手だからさぁ……」と言ったが、俺は何も言えなかった。
 彼は、プライベートタイムでは「義手」というものを ほとんど使わない。(勤務先では、手先の形が違うものを いくつも使い分けて仕事に臨むそうだが、いつも外して帰ってくる。)平然と、中身の無い袖をぶらぶらさせているか、今日のように邪魔な袖を捲って断端を露出させた状態で、出歩いている。
 何も着けていない時、断端こそが「手」になる。片手には収まらない箱等を持つ時に添えたり、鞄か何かの持ち手を肘に引っ掛けたりして、「左手」も、よく使っている印象だ。
 それでも……何かを「結ぶ」のは、かなり難しいようだ。足の指が使える状況なら良いが、靴を履く時は、そうもいかない。

 彼が今 履いている古い靴も、ダイヤル式である。
 何足か試し履きをして、気に入った一足を、買うことにしたらしい。
「おまえにも、新しいの買ってやろうか?」
「え……!?」
じっくりと靴を選ぶ、心の準備が出来ていない。お金を出してもらうのも、申し訳ない。
「ご、ご、後日……自分で、買いに来ます……」
「そうか?」
 彼が選んだ靴の箱を、せっかく同行したので俺が持つ。彼は、別の売り場でTシャツや靴下をいくつか選んだら、靴の箱と同じカゴに入れていく。
 俺も、一枚だけTシャツを買ってもらった。
 レジまで行ったら、彼は財布を出さずにスマホでキャッシュレス決済をした。
 店を出た後も、荷物は ずっと俺が持っている。
「なんか……『付き人』みたいで、悪りぃなぁ……」
「筋トレ、します……」
「そうか?」
彼は、好きにさせてくれた。


 しばらく互いに無言のまま歩いていたが、駅が見えてきた頃に、悠さんが口を開いた。
「俺、今……煙草 吸いたくて堪んねぇんだけどさ。吸える店に、付き合ってもらってもいいか?コーヒーか何か、奢ってやるから」
「は、はい。わかりました……」
俺の経験上、喫煙者が「吸いたくてイライラしている」時に、逆らうのは危険である。
 駅のすぐ近くにある、煙草が吸えるカフェに入り、向かい合わせに座る。彼はコーヒーを頼み、俺は紅茶を頼んだ。先生が昼食を用意して待ってくれているはずなので、食べる物は頼まない。
 彼は、お待ちかねの煙草に火をつける。満足げに煙を味わいながら、脚を組んで、椅子に背中を預ける。左腕を、背もたれに置く。
 大きく息をついてから、煙草を持っている右手の、空いている親指で、あの目立つ傷の近くを ぽりぽりと掻く。
「おまえ……まだ気にしてるだろ」
俺が、彼を殴ってしまったことだろう。
「き、気に、しますよ……もちろん……」
「忘れちまえ!」
彼は灰皿に灰を落としながら、豪快に笑った。
 彼は、あれが病理的な現象だと知っているからこそ、あえて、笑い飛ばしてみせたのだろう。
 そして、横並びよりは少し距離があるため、あえて大きな声を出してくれているのだろう。
「俺、誰かと喧嘩して、何発 殴った・殴られたなんて、いちいち憶えてねーぞ!?」
彼は、漫画に出てくる海賊のように、ふんぞり返って、豪快かつ明朗に笑っているが……俺としては、他の客の、視線が少し気になる。
 悠さん本人は全く気にしていないだろうが、何も知らない人が彼を見れば……充分「恐い人」なのだ。その風貌で、煙草を吸いながら、若人に大声で『喧嘩』のことなど語っていたら……きっと、誤解される。
 「後でLINEしてください」と、言ってしまいたい……。
「むしろ……おまえの身体に『力』が戻ってるんなら、俺は嬉しいよ」
途端に、笑い方が柔らかくなった。
 手の中に煙草が在るから……とはいえ、いかにも満足そうに、そう言ってもらえて、俺も嬉しかった。
「しっかり食えるようになって……体力が戻ってきたんだろ?……粥ばっか食って寝込んでるよりは、良いことだぞ」
(なんと、大らかな人だろう……)
 その後、悠さんが「何、泣いてんだよ!」と笑い出すまで、俺は自分が泣いていると気付かなかった。

 俺が泣いていても、店員は、当たり前のように注文した物を運んできて、そっと置いてくれた。


次のエピソード
【19.良縁の兆し】
https://note.com/mokkei4486/n/n91589aa3a7c8

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