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小説 「ノスタルジア」 8

8.源流


 昼休み、社員食堂で悠介が弁当を食べていると、後から来たわたるが「お疲れ」と挨拶をして、向かい側に座りました。彼も、自身か家族のお手製と思われる弁当を持ってきていました。(誰が作っているのかなど、悠介は訊いたことがありませんでした。)
 亘が「今日は暑いね」とか「自販機が無けりゃ、死ぬねぇ」と言いながら包みを解いて食べ始めると、悠介は全く違うことを訊き返しました。
「あの……。全然、仕事と関係ない質問なんすけど」
「何だい?」
「亘さんは、どこでスペイン語を勉強したんですか?」
「……自分の ばあちゃんから教わったよ」
「マジすか」
あまりに予想外の答えでした。
「俺の ばあちゃんは、ペルーから嫁いできた人なんだ」
悠介にはペルーという国の はっきりとした位置や地図上での形までは分かりませんでしたが、そこが「南米大陸にある国だ」ということくらいは知っていました。
「……ペルーの人って、スペイン語 話すんですか?」
「そうだよ。他にも先住民の言語がたくさんあるけど、公用語はスペイン語だね」
「へぇ……」
生返事をしながら、押し込められて固まったごはんを、箸で切り取ります。(悠介が食べている弁当は、先生宅のハウスキーパーさんが作ってくれたものです。)
「ブラジルの近くっすよね?」
「そうだよ。アマゾン川の源流がある国」
「サッカー強いんすか?」
「どうだろう……。やっぱり、ブラジルやアルゼンチンが圧倒的に強いから、南米の中で勝ち上がるのは難しいんじゃないかな」

 2人がペルーという国について、知りうる限りのことを話していると、何故か睦美むつみが割り込んできました。
「コカインの生産量、世界一なんでしょ!!?」
それは、明らかな嘲笑でした。
「……ペルーの先住民は、コカの葉をお茶にして飲むんだ。高山病対策に」
亘は、睦美ではなく悠介に語りました。
「ラリッてないと死ぬ国なんだぜ!!?マジやべぇ!!」
睦美は手を叩いて笑っていますが、亘はそれを無視して弁当を食べ進めます。

「やめろ」
怒りの込もった低い声で、そう言ったのは……内藤でした。食堂内の、ポットがある場所へ向かう途中だったのでしょう。大きなカップ焼きそばを片手に、仁王立ちしています。
「は?」
睦美は、内藤の発言を鼻で笑いました。
「誰に口利いてんだ、てめぇ」
睦美と内藤は実年齢が同じなのですが、入社したのは睦美のほうが4年早いのです。
「おまえこそ、先輩の ご先祖の国を馬鹿にしてるだろ」
「うっせぇ、ハゲ!」
内藤は、険しい顔で舌打ちをしてから「禿げてねぇよ!!」と言い返しました。
 亘は、内藤のほうに体を向けて、至極冷静に言いました。
「大丈夫だよ、内藤くん。俺は気にしてないから。……ごはん食べな?」
「穂波さんは、甘いんすよ!」
内藤の怒りは、治まらないようです。
 亘は、数秒だけ何か考えるような仕草をしてから、再び内藤に向けて言いました。
Simplemente no tengo tiempo para hablar con idiotas.
(※和訳:俺はただ、馬鹿と会話する時間が惜しいだけだよ。)
 亘が、あまりにも流暢に外国語を話したので、悠介は驚いて固まりました。ごく稀に先生が英語で話す時より、ずっと早口で、目の前に居る亘が外国人であるかのように思えてくるほどでした。
 亘の言葉を聴いた内藤は、意味を知っていたのか、それとも会話を諦めたのか、黙ってカップ焼きそばにお湯を入れに行きました。
 目の前で「馬鹿」と呼ばれたことに気付いていない睦美は、再びゲラゲラと笑いながら、食堂から出ていきました。

 お湯を入れ、湯切りも終わった内藤は、亘の隣に来て座りました。大きなため息を吐いた彼に、亘が穏やかな口調で言いました。
「気にかけてくれて、ありがとうね」
「悔しくないんすか!?あんなん言われて……!」
「……『世界一』はコロンビアだから。あいつの知識は間違ってる」
「やっぱり馬鹿なんすね」
「とはいえ、ペルーは2位だろうね」
それを聴いた内藤は、アニメのキャラクターがするように、ガクッと上体を傾けました。
「仕方ないさ。俺達が日本こんなとこで どうこう言ったって、現地の状況は変えられないよ」
「まぁ、そうなんすけど……」
彼は、入念にソースを麺に絡めてから、いよいよ食べ始めます。
 ずっと、何かを言いたそうにしている悠介に、亘が「どうした?」と訊きました。
「……さっきのあれ、スペイン語で、何て言ったんですか?」
「んー……『あんなのに構ってる時間が勿体ない』って感じかな」
「納期、押してますか?」
そう訊いたのは内藤です。彼は営業マンなので、どうしても製造が間に合わない時に「取引先と交渉して、納期を先延ばしにする」という難しい役目も担っているのです。
「そうでもないよ。……俺は、毎日『早く帰りたい!』と『もっと稼ぎたい!』の狭間で揺れているんだ。だから、品目と時間の配分には すごく気を遣う。……それを、誰かに崩されるのは大嫌いなんだ」
「今、ここで話すのは大丈夫なんすか?」
「休憩は休憩だからね」
「それ……やっぱり、単純に『あいつが嫌い』ってことっすよね?」
内藤と亘の軽妙な会話を、悠介は黙って聴いています。彼は弁当を食べ終わったので、容器を元通りに小さな保冷バッグに入れて、ファスナーを閉めたら、ズボンのポケットから錠剤を出して、それを水筒のお茶で飲みます。もっと時間を空けてから、水で飲むことが望ましいというのは知っていますが、なにぶん面倒くさいのです。(以前は更衣室やトイレに隠れて薬を飲んでいた悠介でしたが、最近は平然と人前で飲むようになりました。)
 食事を続けながら、亘は眉をひそめて言いました。
「あいつが陰で俺のこと『アホ波』って呼んでるの、知ってるんだ」
「マジすか。俺が ぶっ飛ばしましょうか?」
「いいよ。俺も、散々あいつのこと『馬鹿』呼ばわりしてるから」
「俺は『鼻くそ』って呼んでますよ」
「それも、なかなかだね」
悠介が目の前で薬を飲んでいるからといって、2人は何も気にしません。睦美に まつわる、軽口の応酬は続きます。

「松くんは、そんなことしないよね」
「ジェントルマンだもんなぁ」
急に話を振られた悠介は、困ってしまいました。人前で大人しい(gentle)のは間違いありませんが、自分は決して「紳士」ではありません。悠介は、それを口に出すか否かで迷っていました。
「松くんは、誰の悪口も言わないよ。俺達とは違うんだ」
「俺達みたいに“穢れて“ないんすよ」
あれだけ怒っていた内藤は、すっかり機嫌が直ったようです。

 
 午後の仕事が始まります。
 昼休みのうちに夥しい数のFAXが届いていたらしく、悠介のデスクに置かれた図面のボックスは山盛りになっていました。それを見た直美が「うわぁー!」と声をあげて笑いだし「手伝いますよ」と言いました。
 しかし、悠介はそれに応えることなく…………背もたれに手をかけていた椅子にも座らず、涙を零し始めました。
「えっ……!!?」
直美は、理由が解らず困惑しました。

 悠介は、蒼白い顔をして しゃがみ込み、泣きながら震えているばかりです。直美が何を言っても、彼は応えません。
 それに気付いた内藤が、すぐに彼のもとへ駆け寄りました。

 彼らが何を話しているのか、悠介にはよく判りませんでした。まるで、汗ではなく血液が全身の毛穴から流れ出て、生命が消えつつあるかのような感覚に陥っていました。身体のどこにも力が入らず、しゃがんでいることさえ出来なくなって、床に倒れ込みました。
 そのまま、目の前が真っ暗になり、何も聞こえなくなりました。


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