見出し画像

小説 「ノスタルジア」 7

7.右腕


 現場仕事を終えた職人達が、私服に着替える前に、社内では貴重な「お湯が出る蛇口」の前で石鹸を使って肘まで洗う(人によっては頭まで洗う)……というのは、この会社では日常の光景でした。
 
 とある金曜日の夜。例の【勉強会】を終えて現場の隅で腕を洗っていたわたるは、すぐ近くで悠介が手先の治具じぐを外しながら順番を待っていることに気付いていました。
 念入りに泡を流してから交替し、自分の腕を拭きながら、亘は手を洗い始めた彼に提案しました。
「松くん。今度さぁ……仕事終わり、一緒にお風呂屋さん行かない?」
「え……」
「俺の回数券、分けてやるからさ。電車乗る前に、ちゃんと体洗えたら、すごく気持ちが良いよ」
亘にとって それは、運良く早めに上がれた日にしかできない、ちょっとした贅沢でした。
 しかし、悠介は乗り気ではなさそうです。
「嫌かい?」
悠介はソケットに圧迫されていた左腕を揉みほぐすように洗いながら、とても恥ずかしそうに答えました。
「いや、俺……昔、調子こいてタトゥー入れちまったんすよね……」
「うそ!……どこに?」
「……ケツに」
「マジかよ!……わぁ!」
亘は、悠介がこれまでに見たことがないほど大笑いしました。
 悠介が顔を赤くして返答に困っていると、亘は「ごめん、ごめん」と謝りました。
「松くん、真面目だからさ。墨なんて、入れるわけがないと思ってたから……びっくりしたんだ。ごめんよ」
悠介は、何も言いません。
「だけど……そんなの、タオルを巻けば分からないよ。行っちまおう!」
 結局、悠介は断りきれず、日を改めて亘と銭湯に行くことになりました。

 亘のお気に入りの銭湯は、職場の最寄り駅近くにありました。
 脱衣所で、亘は躊躇ちゅうちょなく素っ裸になり衣類を全てロッカーにぶち込みましたが、悠介のほうは人目を気にして、なかなか最後に残った下着を脱ごうとしません。
 亘は、さっと自分のフェイスタオルを広げました。
「どっちの尻に入ってるの?」
悠介が小さな声で「右っす」と答えると、亘はすぐ悠介の右側に立って彼の尻を隠しました。(亘自身は、どこも隠していません。)
「今なら大丈夫だよ、ほら!」
「いや……あの…………俺、マジ『短小』なんで、そこ笑わないでくださいね!?」
「笑うもんか。……興味も無いよ」
成人らしからぬ局部の小ささが、悠介にとっては最大のコンプレックスだったのですが、亘は至って冷静でした。
 悠介は、やっと下着を脱ぎました。
「松くんこそ、俺の足を見て笑わないでよ?」
その言葉を不思議に思い、下着をロッカーの中の鞄にしまってから、彼の足に視線を向けると……悠介は、正直とても驚きました。しかし、それを見て笑うほど愚かではありませんでした。
 亘の足は、両方とも指が4本ずつしかないのです。そして、どちらの足にも、正中線に沿って縫い合わせたような痕がありました。
「俺、生まれた時はコアラみたいな足してたんだ」
コアラの足の形なんて、悠介は知りませんでしたが……要するに、この縫い目は後天的な怪我の痕ではなく、先天的に特異な形をしていた亘の足を「医師が外科医に整えた痕跡」なのだろう、ということくらいは解りました。
 亘は身長の割に靴のサイズが小さいということに、悠介は前々から気付いていましたが、今はっきりと理由が判りました。
「うちの家系、男は みんな こうなんだ。親父も、弟も……こんな感じ」
だから、これだけ堂々としていられるのだろう……と、悠介は思いました。
「俺の子は娘だから、大丈夫だったよ」
「そ、そうすか……」

 タトゥーの位置を確認した亘は、何も言わずに悠介が持参したほうのタオルを受け取って彼の腰に巻き、見られても困らない左側で結んでやりました。
「さぁ、入ろう」
「……はい」
2人して、朝の出勤時からリュックに忍ばせていたナイロンタオルを手に、いよいよ浴場に入ります。

 平日の夜の銭湯は、思った以上に空いていました。悠介達と同じような、仕事終わりの肉体労働者らしき人が ちらほら居るだけで、親子連れの姿はありません。
 2人は浴場の隅の洗い場に並んで座り、それぞれにシャワーで湯を浴びてから頭を洗い始めました。悠介の左側は壁で、右側には亘が居ます。……誰にも尻を見られない、完璧な位置取りです。

 それぞれが体を洗っていると、やがて亘が「背中の洗いっこしよう」と言い出し、半ば一方的に悠介に横を向かせて背中をナイロンタオルでゴシゴシ洗い始めました。悠介は、少し照れ臭いような気もしましたが、尊敬する先輩に洗ってもらえることは、なんだか誇らしくもありました。
 黙って背中を預けていると、亘が言いました。
「本当に良い背中してるよねぇ…………水泳部だった?」
「よく分かりましたね……」
「綺麗な逆三角形だもの」
「……亘さんは、部活やってましたか?」
「やってない」
悠介の予想も、当たりました。普段の様子から、亘には学校の部活動で叩き込まれるような「年功序列」という概念が、まるで無さそうに見えていたのです。彼は、実年齢や勤続年数よりも「職人としての技術力」とか「仕事に取り組む姿勢」「人としての良識や教養を持ち合わせているかどうか」で、他者を敬ったり、毛嫌いしたりしていました。
「俺……小・中は ほとんど不登校だったし、高校は通信なんだ。……それでも、専門学校だけは、ちゃんと毎日通学したよ」
そんな学歴は、予想だにしませんでした。悠介は、何の疑いもなく亘を「大卒だ」と思っていました。工場長が、彼のことを「社内で唯一スペイン語が解るバイリンガルだ」と話していたからです。
 しかし、スペイン語のことを尋ねる間も無く、亘は「はい、交替ね」と言って洗うのを止め、悠介に背中を向けました。悠介は いそいそと振り返り、何か神聖な物に触れるかのような気持ちで、彼の大きな背中を慎重に洗い始めました。
「もっと強くてもいいよ」
「あ、はい……」
誰かの背中を洗うなど、悠介にとっては小学校の修学旅行以来でした。……当時は両手を使いましたが、今は そうもいきません。

 2人ともが全身を綺麗に洗い、流したら、誰も浸かっていない湯船を選んで向かいます。悠介の尻を誰にも見られないよう、亘は側を離れません。何人かの先客が、彼らの距離感や振舞いを不思議そうに眺めていましたが、誰も何も言いませんでした。
 無事に入湯して座れたら、2人は自分の頭の上にタオルを乗せました。
「その紋様には、何か意味があるの?」
「モンヨー?」
「尻のさ」
「これすか!?」
この場所では何よりも秘密にしたい事柄を亘が平然と口に出したことに、悠介は驚きました。
「嫌なら、答えなくてもいいけどさ」
「いや……これは…………昔、すんげぇハマったゲームがあって……いちばん好きなキャラが、肩に入れてたんすよ。こういうの」
「へぇ。……それを、どうして尻に入れたの?」
今は湯の底に隠れているから問題無いと、亘は確信しているのでしょう。
「就職してからも、プールにだけは入り続けたかったんで……」
「なるほど」
水着で隠せる場所なら、確かに大丈夫でしょう。
「でも……結局、時間的に無理で」
「そう?夜中まで開いてる、ジムとかあるだろう?」
「毎日、仕事だけで……フラッフラになっちまうんで……泳ぎに行く『余裕』が無かったっす。休みの日は、寝たいし……」
「頑張り屋さんだなぁ」

 2人が話しているうちに、先客達は帰っていきます。後から入ってくる人も、まばらです。ほとんど「貸切り」同然でした。
 亘は、湯の中で脚を伸ばしたり、腕を揉んだり、自由に のびのびと動きます。やがて、ずっと同じ場所で座っている悠介の、真正面に移動してきました。
「俺は、こう見えて松くんを尊敬しているんだよ」
「いやいや!俺なんか、まだ入りたての『ぺーぺー』っすよ!?」
「うちでの年数なんか関係ないよ。18から、ずっと『製造ひと筋』なんだろ?もう立派な【職人】じゃないか」
誉められるのは喜ばしいことですが、悠介は、自分を「立派だ」とは到底思えませんでした。現場に出られるのは週に一度だけで、更には30歳を過ぎてまで、あがり症による硬直や、子どものような癇癪かんしゃくが、治らないのです……。
 しかし、亘の語り口に迷いはありませんでした。
「それに……現場で大きな怪我をしたのに、それでもまだ『戻りたい』なんてさ。それこそが、本物の【情熱】ってやつだと、俺は思うよ」
悠介が応えに困り黙っていると、亘は「直ちゃんも、そうだけど……」と、言葉を継ぎました。
 直美は、大学生だった頃にアルバイトとして家業を手伝っていて、回転中の刃物で大怪我をしました。亘はその日も出勤していて、彼女の失われた指先を探し回った人員の一人でした。(結局、見つかったそれを元のように繋ぎ合わせることは不可能でした。)
「俺には無いものだから……本当に尊敬する」
亘は確かに「クール」と云うべき性格ですが、悠介としては、それを「情熱が無い」とは言いたくありませんでした。本当に情熱が無ければ、同じ仕事を16年も続けてはいられないでしょう。
「俺は、真希が将来どういう学校を選ぶかによっては、転職するか、外国へでも出稼ぎに行かなきゃならない。……会社の みんなは、俺を石川さんの後継者みたいに言うけど、俺は『定年まで働きます』なんて、お約束はできないんだ」
常務にまで昇り詰めて、それでも「お金が足りない」となると……娘が海外留学をしたり、大学院にまで進んだりしたら、ということでしょうか。
「きっと……新しい社長の【右腕】になるのは、君だよ。松くん」
亘のような「天才」が、本気でそんなことを言うというのが、悠介は信じられませんでした。
「い、いや……そんな……俺が【右腕】だなんて……!!」
悠介は顔を赤くして謙遜しましたが、亘は「他に誰が居るのさ」と、湯の中で朗らかに笑いました。


 この日以来、悠介は、亘とだけは一緒に銭湯へ行くようになりました。仕事が忙しく、それほど高い頻度ではありませんでしたが、彼となら「裸の付き合い」も安心して楽しめました。


次のエピソード↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?