見出し画像

四十にして惑うのは当たり前だった

またまた『論語』のマンガ版を読んだ。
今回は『続・論語』のほう。

前作は高校生を主人公にした物語だったので、物語に乗り切れなかった部分もあったのだけど、今回読んだ『続・論語』のほうは、孔子の生い立ちも描かれているので、孔子や論語を手っ取り早く知るにはとても良い作品だと思った。

改めて「四十にして惑わず」の部分も読んだのだけど、

15歳で学問の道を志し
30歳で自信を得て
40歳で生きかたに迷いがなくなり
50歳で天命を自覚する
60歳で人の意見を素直に聞くことができ
70歳で欲のまま行動しても道を踏み外さなくなった

『続・論語』より引用

と書いてあり、あぁそうか、15歳の時点でもう孔子という人とはレベルが違うんだな、と改めて思ったのでした。

「四十にして惑わず」の部分ばかり気にしていたけれど、15歳のころから学問に打ち込んで30歳で自信を得るという、その土台を作らなかった人が40歳になって迷ってばかりなのは当たり前なのだな、と当たり前のことに気がついたのだった。

子どものころから学問に興味があって、勉強しまくっていたという過去がない限り、孔子のように世の中を見ることは難しいんだよね。

だから40歳にして迷いまくりでも仕方がない。
といって、迷いまくればいいじゃんと開き直る気持ちも薄く、できれば迷うことなく生きられたらと思ってしまう自分がいる。
しかしこれは、迷うことなく生きることができたら幸せかもしれないという思い込みから発生している感情。
私の思い込みは、多くの場合、間違っていることが多い。

それにしても、「論語」を知れば知るほど面白いなと感じている自分がいて、知的好奇心をくすぐられるものに出会うのって本当に楽しいなと思った次第。

そんな最近の読書は『われら闇より天を見る』

「このミステリーがすごい」や「ミステリマガジン」の年間ランキングで、1位だったこの本。
ただ1位というだけで手に取ってしまった一冊。

予備知識もなく読み始め、内容が非常に暗いものだから何度か読み進める勇気を失いかけたものの、気づいたら半分以上を一気読みしていた。

幼い弟を必死に守ろうとする13歳の少女ダッチェス。
ダッチェスの世の中を憎みきったような態度の数々をながめながら、この境遇で生きていくにはそうせざるを得なかったのだろうなと思う気持ちと、しかしそれだけでは図れない彼女なりの思いなどに翻弄され、私自身のメンタルも深い闇へとさそわれそうになった。あぶなかった。

物語の始めから不穏な空気をバシバシ感じるのだけど、なぜか事件は発生し、え?なぜ??と思いつつ、しかしダッチェスの成長は最後まで見届けたいと思う気持ちでページをめくり、新たな出来事で心が砕かれるかと思った。
え?なぜ??????

半分読み終えたところで、『われら闇より天を見る』の著者はどうしてダッチェスに苦痛を与えるのかと思わずにはおられず、しかしこれも物語上は致し方ないことなのかもしれないと自分に言い聞かせ、どうにか結末へとたどり着きたい気持ちで今はいっぱい。

どうしてこの本が年間ランキングで1位になったのか、私にも理解できる日が来ると良いな。
今のところはダッチェスと、犯人とされている人物への思い入れが強すぎて、客観的な判断ができそうもない。

あぁでもこうして、半分以上を一気読みできるということは、やはり面白い作品であるということなんだろうな、とこの記事を書きながら気づいた。
そうか、私は今、面白い本を読んでいるんだ。
それは幸せだ。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?