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綴るか…言葉を

まあそこそこ生きてきて、考えたことやらやってきた事が積み重なってきたような段に入ってきたので、少しずつでも文章に起こす努力をしてみようと思いnoteにログインした。断片的に語られるonikuのすべて。

とは言うもののそんな大層なことはなくて、『たった一言』言いたいだけなのだ。そのたった一言に説得力を持たせたいがために長ったらしく文章を書こうと言うのだ。ツイッタに書くには過去すぎるし注釈が多すぎる、じゃあnoteに書くか、といった次第だ。

文章を書くのは嫌いではない。学生時代、日直の時に書かされる日誌を面倒くさがりながらも、いかに面白いことを書いてやろうかと考えを巡らせながら授業を受けたものだった。ただ、文章を読むのは苦手であり、かろうじて好きで読んでいたのは西尾維新の物語シリーズだった。ちなみに初めて購入した本はなぜか宮沢賢治。理由は学校の授業でクラムボンがかぷかぷ笑ったから。胸を張れるほど読んではいないが、学生時代に自発的に読んでいる本があって良かったと思う。言葉選びが素敵な大人になりたかった。
学校を卒業し、肩書きも所属もなくなり社会的に存在が希薄になってからはすっかり文章を書くことが無くなった。それが逆に私の内に秘めたる『文章書きたい欲』を刺激した。

表現する方法は色々あると思う。踊る描く歌うなどたくさん。言葉もその一つで、なんだかんだで一番明確に表すものなんじゃないかと思っている。だが同時に、明確すぎて一番勘違いされやすいのも言葉だろう。意図に真に近づける為にはたくさんの注釈が必要になる。だから書くだけ余計なのかもしれないし、無駄なのかもしれん。けど、文章じゃないと伝えられないすげーことを伝えたくて、遠回りしながらでも書いていこうと思っている。

というのも私は普段バレエダンサーとして生活している。一応(お小遣い程度だが)お給料ももらいながら…
踊ってもみたし振り付けもしてみた。絵も描いてみたし木も彫ってみた(⁉︎)

ぼくは存外おしゃべりなのかもしれない


何かを分かった気になっている訳ではないが、今度は直接的に人に伝わる言葉というものを使ってなにか作ってみようと思う。自分の整理のためにも。ハナから伝える必要は無いのかもしれないが、言語化する訓練にはもってこいだろう。時々自分でもなんでこんな事をしているのかわからないけれど、せっかくなのでこのクソでかい公開日記の続きが気になった人は気長に付き合っていただきたい。

次の投稿はいつになるか分かりませんが、大学生の頃暇が極まりすぎて遂に木を彫りだした時に考えたことを書こうと思う。

次回
おがくずの中で


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