【短編】 ビストロ 「Le Paresseux」
パリの閑静な裏通りに佇む小さなビストロ、「Le Paresseux」。
「怠け者」という意味のその店は、パリ市民の間では隠れた名店として知られていた。
誰もが知るわけではないが、知っている者にとっては一度訪れたら忘れられない特別な店なのだが・・・
店内はアンティークの家具で揃えられており、照明は控えめで落ち着いた雰囲気を醸し出している。
メニューは日替わりで、シェフのおまかせコースのみ。料理は見た目こそシンプルだが、一口食べればその奥深さに驚かされる。
特にデザートは、その甘さがまるで心の中の悩みをすべて溶かしてしまうかのようだった。
シェフのジャン・ルフェーブルは、口数は少ないが、どこか独特な存在感を放つ男だった。
白髪混じりの髭を蓄え、少しうつむき加減で気だるそうに仕事をする姿は、一見すると本当に「怠け者」に見えた。
しかし、その手元から生み出される料理は、彼がいかに多くの時間と情熱を注いでいるかを物語っていた。
ある日の夕方、ひとりの若い女性が「Le Paresseux」を訪れた。
彼女の名はエマ。彼女は恋人との突然の別れに心を痛めていた。
食に関するライターとしてようやく一人前となった矢先、多忙ですれ違いが多くなっていたパートナーから別れを告げられてしまったのだ。
仕事関係の知り合いからこのビストロの話を聞き、「ここならきっと何かが変わる」と言われ、ふらりと足を運んだのだ。
店内に入ると、静かな音楽とともに香ばしいパンの匂いが鼻をくすぐった。エマは窓際の席に案内され、バッグとトレンチコートを脇に置くと、厨房で一人仕事を始めたシェフの様子を観察するように眺めた。
「シェフは姿勢もよくないし、活気がない。本当にこんな店で、感動するほど美味しいものが食べられるのかしら」
しばらくすると、前菜、メインの魚料理が運ばれてきた。
エマの予想に反し、料理はどれも大変美味しく、心が少しずつ軽くなるのを感じた。
しかし、最後にデザートを口にした瞬間、エマの目に涙があふれた。
とろけるような甘さの中に、言葉にできないほどの苦さが混ざっていたからだった。
まるで、恋人との別れの痛みが凝縮されたかのような味だった。
エマはその後、シェフのジャンに尋ねた。「どうして、こんなに苦いの?」
ジャンは面倒くさそうに、しかし少し微笑んで答えた。
「料理は、食べる人の心を映す鏡なんです。あなたが今抱えているものが、デザートに現れたのでしょう。」
エマはその言葉に驚き、そして少し納得したように頷いた。店を出る頃には、彼女は清々しさすら感じていた。
数日後、エマはあのビストロのことが気になり、ネットで「Le Paresseux」について調べ始めた。
しかし、どれだけ探してもそのビストロに関する情報は見つからない。
口コミやレビューサイトにも一切載っておらず、地図にも存在しない。
まるで、夢でも見たかのように。
彼女は翌日、再びビストロがあったはずの場所を訪れた。
しかし、そこにはただの古びた空き店舗があるだけだった。「Le Paresseux」の跡形もない。
エマは不思議な気持ちで立ち尽くしたが、
確実にあの夜のデザートの何とも言い難い苦味は、舌と記憶にハッキリと残っていた。
それは、彼女の心を再び前に進ませるための小さな一歩だったのかもしれない。
そして、彼女がその場を立ち去ろうとした瞬間、背後で微かにソテーパンが触れ合う音が聞こえたような気がした。
それはまるで、「いつかまた、人生に悩んだときにこの店にいらっしゃい」とでも言われているかのような、そんな音だった。
月日は流れ、エマは成功し、常時いくつもの案件を抱え締め切りに追われる、パリではちょっと名の知れた売れっ子人気ライターになっていた。
その日も夜遅くまで担当者と打ち合わせ。足取り重く、疲弊気味に地下鉄の最寄り駅を降りていつもの路地を曲がると、昨日までは無かった小さなお店を見つけた。
飲食店だわ。開店準備をしていたなんて、全く気がつかなかった。
雰囲気のある間接照明の鈍い光が、磨りガラスから漏れている。
ファサードには、「Le Paresseux」の看板。
「あ、あの時の」
と思うと同時に、エマは店のドアを開け店内に入っていた。
あんなに探したのに見つからなかった、ビストロ「Le Paresseux」。
「どうやらホントに、人生に悩んだときにしか出会えない店らしい。こんな、飲食店のライター冥利に尽きる店、他にあるかしら」
案内されたテーブルにつき厨房を覗くと、例の髭を蓄えた「怠け者」=ジャン・ルフェーブルの姿。
エマは水差しの冷たい水をグラスに一杯、ぐっと飲み干すと、ブラウスの袖をまくりながら、独り言にしては大きな声で呟いた。
「さあ、シェフ。どんな料理を振る舞ってくれるのかしら。あの時とは比べ物にならないぐらい、今の私は壮大で複雑な悩みをてんこ盛りで抱えてるわよ。」
厨房の奥で、ソテーパンが触れあう音が聞こえた。
シェフ、ジャン・ルフェーブルはうつむきながらも少しだけ、不敵な笑みを浮かべているようだった。