見出し画像

「売れる」と「朋子的コミュニティ論」の狭間

知人の紹介記事でこちらのたけのこさんの記事を知った。

何故書くか、誰に書くか、実はこの質問に真っ正面から向き合ったことはあまりない。なかったのだけれど、この記事で自分を理解するヒントをもらった気がする。

ちょっと長い・・・いや、かなり長いけど、見出しを使って好きな所を読んで貰えたら。
どうしてそうなったか、の自分の頭の中の解剖もしたい。同じ様にぐるぐるしているひとがいれば、多少役にたつかも。年令重ねるとそう言えるのか、が多少分かったら気楽になるかもしれないから。

1 そもそもどのくらい売れたいか、の問いかけ

売れたいとき、一番まともで効率いいのは 所謂「ターゲット」(伝えたい相手)がはっきりしていて、そのターゲットが望む方向の情報提供を加えた情報発信、なのだと思う。実際そうやっていた時期もある。

ただ、もう今の自分には違うんだ。「効率」良いやり方を実生活レベルで渡す情報、とか、興味ないって気付いちゃった。気付いちゃったから「何を書こう」難民になった 笑 それでも書きたいって思う、私の根本はなんだ?

・・・・という、「誰に」「何を」がわからない状況でぐるぐるしていた2年。

画像1

ここにたけのこさんの衝撃の一言。

アマチュアの立場で創作を行う場合、そこにはグラデーションがあって、「まったく売れたくない」「誰にも知ってほしくない」という人もいれば、「少しは売れたい」や「仕事にしたい」という人もいるだろう。

ああ、そうだった。そういうところ・・・なんか自分の中ではどうでもいいってなってたけど、どうでもいいじゃなくて「なにが」どうでも良くて「なにが」どうでも良くないのか、から始めなきゃいけなかった。(レーダーチャート式診断でも、そういえば池松さんがわざわざ妄想してくださった部分だった。)

2 モーツァルトになるか、コミュニティを選ぶか:私の場合

売れたいか、売れたくないか→どうでもいい。
知って欲しいか、知って欲しくないか→正直どちらでもいい。
   私という個人を知ってくれて、面白いとおもってくれるならそれで。
仕事にしたいか、したくないか→仕事に繋がるなら嬉しいな

これが私の今の感覚。(見出し番号7と8にそのココロがかいてあります)

ここで「売れる」と「知ってもらう」を別にした。
私の中では大きな違いがあるから。ていうか、一致してる人の方がめずらしいかも。時相もある。(モーツァルトさん↓は知られててで売れてたひとだけど、歌手には知られてても売れてる、売れてないがある、みたいな)

画像3

売れる、って、自分を商品として人前に出すということだとおもう(それに引き続いて、自分が仕事とするものを買って貰う)けれど、まぁ後述するけど「今の私」には本当にどうでもいい。

一方で「知ってもらう」これはハードルが高い。人は見たいモノしか見ない。理解したいようにしか理解しない。その前提の中で「自分という人間の概要」を過剰の期待なくひん曲げることなく受け取ってもらうことが知ってもらう、だと思うと、一筋縄ではいかない。
知る途中で「めんどくせーこの人」と思われるのは構わない。知る途中で「この人すごい」と間違った根拠で信じられてしまうよりよっぽどいい。

個人を知ってもらう、ということは友達になる可能性が出る、と言うことだと思う。距離はどうでもよくて友達になってくれる可能性がある(これを友達属性と私は呼んでいるが)ということは、「一緒にコミュニティを形成できる可能性がある」ということだ。そして、人間はコミュニティを作って生きる動物だ。

同じ舟に乗ってお互いの存在を直接知らなくても、きっかけと機会があれば同じような興味を時々共有する。私の中のコミュニティの捉え方だ。その中で共通項が多いとニッチなコミュニティ、目的を共有するコミュニティが生まれる。前者には物理的距離もそうだが「相性」ってものが存在する。ああ、そのうちコミュニティの話もしよう。

   * * *

ところで少し話がずれるけれど、売れる、にイコールで繋げられがちだが、インフルエンサーということばが数年前から巷に溢れて、下手すると子供が将来の夢に「インフルエンサーになること」とか書いてるらしい。申し訳ないが

  ど う で も よ く ね ?

と思う。というより、自分の発言や行動で人が動く本当の怖さを知らないんだろう。これを入ってくる金銭的価値だけ夢想して、心が疲弊する時間的・精神的価値(これらの金銭的価値はもの凄く高い)を考えると全然効率よくないし。だからこそ、覚悟が必要なんだとおもうけど。ま、知ってみて初めてどうでもいいと言えることだから、止めないけどね。


3 売るものはバナナ?珍しい美味しい魚?

【売れる】というのは言ってみれば行商だ。コミュニティに属するかどうかは関係無い。
ただ、コミュニティに属していれば「どうせなら知ってる人から」が成立するし売れる確率も高い=効率も良い。

だけど、コミュニティに属してなくたってどうしても欲しいものだったら、そしてそれが「人生変えちゃうような詐欺」でなければ入手してみるか、って気になる。滅多に手に入らない美味しい季節の魚を行商にくる「コミュニティ外」のひとから買わない、っていうのはコミュニティ内でその魚を扱う人を知っているか、そもそもその魚がいらない人だろう。

バナナみたいなものだったら知ってるオジサンから買うよね。今すぐどうしてもバナナが!っていう切羽詰まったときはそれこそ、誰でもどこでも良い、すぐ手に入るところで買う(安いから値段の比較もあまり意味ない)。

画像2

コミュニティのなかで「売れる」というのと、コミュニティ関係無く「売れる」というのとでは、方向性が変わってくる。
内輪ウケしてる話をするか、内輪ウケのネタを外部で披露できるか、っていう違い。(あ、むしろわかんない?)

4 ストリートパフォーマンスをどこでやるか

当たり前のコトだ、コミュニティ内にはうっすらとでも存在を知っている、もしくは何らかの共通点を有する人達という前提があるから。

だからコミュニティ内でなにかをするのはやりやすい。応援が得られやすいのだ。まったく生産的とは程遠い活動でも地域でヒットする、みたいなもの。

イベントを立ち上げる、という事例で考えたら簡単じゃなかろうか。
どこかの有識者会議みたいなところ、「経済をどう回すか」みたいな議論をしている人達のグループに「子育ての楽しさを共有する会をやりましょう」って言ってみて?いや。言えないでしょ、場がしーーーーんとするのは分かってる。

だけどよく行く公園で、「子育ての楽しさを共有するイベント、やってまーす」と声をかけたら、顔見知りも多いから「え、なにやってるの?」って来てくれるでしょう? たいして意味のない下らないことでも集まってくれるし、なんだったら「こうしたらもっと興味でるかもよ」とアイディアまで頂いちゃったりする。

画像4

これがコミュニティ内でなにかをするのが楽ちんだということ。

コミュニティ内でもいろんな興味をもったひとが行き来するところ・・・駅前とかで、「子育ての楽しさを共有してまーす」とイベントやったら?まぁ、最初のグループよりはちらほら、冷やかしでも立ち寄ってくれるだろうし、よく行く公園グループよりはちょっと遠巻き。そんなの説明しなくてもわかりますよね。

「なにを伝えたいか」をはっきりさせると言うことは、有識者会議みたいなニッチな題材を考える人達にむけて自分が活動するのか、近所の公園で共通話題の多い人にむけてなのか、駅前で活動するのかがわかるということ。

ニッチな題材なら コミュニティの物理的範囲は大きくないとコミュニティの人数そのものはあつまらない。
何を伝えるかがはっきりしてなくても「近所の公園なら あーそれね、と話に乗ってきてくれることを伝えたい」なら、公園というキーワード中心のコミュニティに行けば良い。
どんな年令、どんなバックグラウンドでも興味あるひといるとおもうんだよね、というときは駅前くらいが比較的やりやすい。

足をおいているコミュニティって、事の始めやすさ、やりやすさでもある。というか、それが分かってるから集まってるし、それこそが相性ってもんでもある(相性論はまた、長いから別で)

5 影響を与えることは両刃の剣

インフルエンサーという言葉をちらっと出した。
簡単なイメージは その人の周りにひとつのコミュニティができている、ということだ。インフルエンサーが発言し、行動し、見せることでコミュニティが動く。これは何でもやりやすい。事も動くし、仲良しも(あるいは耳当たりの良い事を言ってくれる人も)増える。

だけど、コミュニティを引っ張る、というのはリーダーになる、ということと同義だ。リーダーになることは誰でも経験すべきだとは思うのだが、反対されたりある間違った発言や行動で人が離れていったり陰口をたたかれたりもする。これは心にいたい。かなり痛い。もちろん、そういう中で学ぶものは多いからこそ誰でもリーダーを経験すべき、とは思っている。
そしてそれよりも怖いのは 自分の言葉を盲信し(かつ一部誤解して)行動する人が出る事だ。その行動がある一定のひとたちを傷つける事になったら。もちろん意図していたなら別だけど、そうでなかったら自分にどうしようもない傷を残す。傷どころか、自分が壊れかねない。責任も取りようがない。

画像5

長くなったのでこの辺にするけれど、影響を与えるって、責任も出るって事だ。どうもその辺を知らずに、あるいは責任は転嫁する気満々でインフルンサーになると言ってるひとが多いように思う。それぞれのヒトのラーニングカーブだからそれでも良いんだけど、それで立ち直れなくなるならどうよ、って思う。

6 電柱はどのレベルで知られるだろう

知られると影響する人達が増える。責任が知らず増える。
それを怖がってSNSに出てこないとか、内に閉じこもるひともいる。

だけど、コミュニケーションって相手に自分を知られることでしか成立しない。「自分のことは詮索しないで、でも君のこと教えて」って言われて教えますか?私はしないけど。

知られる、も練習だ。どこまで、どの切り口の自分を見せるかは、自分の経験の中で自分の耐性を確認しながらじゃなきゃ分からない。そしてそれがコミュニケーションの基礎であり、コミュニティという「安全な柵内」に誰を入れるか、の基準となる。
大事なのはこの基礎・基準は人間の数だけ正解があるから、人に聞いても分からないって事だ。
それに先にも書いたが「社会に対しての責任」というのはコミュニティ内の自分の役割を知らないと実感にならない(だからコミュニティを考えられない年令の「社会に対して責任なんてねぇよ」発言もある)。

画像6

傷つきやすいひと、確かにいるだろう。でも上着を着たって傷つくんだ。傷つかないようにするには「自分を守る距離はどのくらいか」を知ることだ。これも実感を伴う経験でしか その人に最適な距離はわからない。

でももっと大事なコトなんだけどね

あなたが思うより、他人はあなたなんて目に入ってないんだ。目に入っていたとしても記憶に残らない。
あなたは家から駅までの間にたっている電柱と同じです。そこにあることは知られてるけど(あるいはあるんだろうなくらいに思われているけど)数もしられてない。電線用なのか他のケーブル用なのかも他の人にはどうでもいいし、なんだったらあなたという電柱が住所表示されているかどうか、ポスターが貼られているかどうか、家の目の前にあるか駅前にあるかもどうでもいいのだ。知らなくても電柱がある、で済むから。

頑張ってみたところで、普通は沢山の電柱の中の一本、くらいにしか認識されない。そういうもんです。とくにインターネット上に自分をだすというのは。

7 傷つきやすい心とコミュニティ

傷つきやすいのはあなただけではない。いや、別にだからどうでも良いと言ってるのでは無い。

みんな傷つきやすいから、自分と適度な距離をとれるひととコミュニティをつくって自分を守るのだ。コミュニティは楯でもある。だからこそ、そこでの責任や「間違わないリーダーシップ」も求められちゃうのだが。

街の中でなら行商できる人もいる。追い剥ぎに遭うとか言われても「知らない街で知らない人とすれ違うことこそ醍醐味」って遠くに行商にいけるひともいる。売り買いせず畑で野菜をつくっている人もいる。それを店先に並べるひともいる。

だからこうでなければ、と自分を追い込む必要はなくて、自分が出来るところに身をおいたらいい。

今の私は自給自足してる農家のおばちゃんみたいなものだ。自給自足が成り立ってるから売りに行く必要もないんだけど、売ってくれ、といわれたらいいよ、という程度。いるでしょう、そういうひと。

画像7

自分の畑で取れるモノの美味しさに自信はあるから、売れたら良いなぁとはおもうけど、自分でも食べてるから売る必要もない。

どこにむけて文章を書くか、ってそんなことなんじゃないだろうか。
畑を手入れする時間はないから、手先の器用さを用いて手作りのものを売っているとか。裏山に薪にできる木がたくさんあるから炭をやいてるけど、豪遊したいわけでもないからそこそこ売れればいいとか。
あそこのイタリアンレストランが美味しいって評判だけど私の作る日曜のパスタが一番おいしいのに・・・って、人をやっかむ必要も無い。もし商売にしたいならまず店を開いて、何人くらいにそのクオリティを保って提供出来るかやってみればいい。コミュニティに根を下ろしたら、勝手に評判が立つ。評判の広まりがイマイチなら、改善点を探せばいいだけだ。

どれをこうしたらいい、ではなく、自分はどんな人間で何が出来てなにが出来ないかを知るのが先だ、というのはそういうことだ。

今の所、私は自分の畑で売るほどの量が取れるのか、私が美味しいと思う野菜は他人のお眼鏡に適うのかがわかっていない。分かっているのはそれで家族が健康に暮らしていることだけだ。年をとってきて新しいものにチャレンジするにも限界が出てきたと知っているだけだ。

8 まとめると

自分の判断での距離感で人と知り合い、コミュニティをえらび、生きるための術とする「書くこと」なのか共有するための「書くこと」なのかを選べば良い。
食べ盛りの子供がいるから沢山売らないと、というひとに私とおなじゆっくりゆったり自給自足は正解にならない。おなじコミュニティにも属することはない。

私は上手に書けるようになりたいけど、それは「もうちょっと甘いニンジンをつくれないかな」みたいなものだ。うちのニンジンと近所の農家のニンジンを比べて「うちのが小さいのは恥ずかしいし悔しい」とはならないのは、自分の味覚をしっていて その味覚にあうものを作っている、と分かっているからだ。立ち寄ってくれた人にそのニンジンをつけたぬか漬けを出して喜んでもらえたらもの凄く嬉しい。でも売れなくても別に良い。

若い人は行動するエネルギーもあるし情報をあつめてしまう技術もある。そこで不安になったり「この一歩でイタイ目にあったらどうしよう」というのがあるのはよくわかる。

だけどねぇ、得られるものを理解してから出す一歩はつまらない。得られるものがあるかどうか分からないけど一歩を出す、そこで思いがけず(ヘタすると十数年後に)得たものに気付いたら「ああ、効率だけ考えてたら手に入らないモノもあるんだな」って実感で分かると思う。

高校のときの歩く会の話をかいた。そこで「どうして歩かなければいけないのか。そんなことを考えるのは愚問だ。」と書いたのは、経験から得た人生の真実だ。そしてその真実がいつ目の前に現れるかは、それぞれのひとで違うから羨んでもしかたない。

半世紀くらい生きるとそういうことがちょっと俯瞰できるようになる。でもそれまでは、なんでもやってみたらイイと思うよ。どんなコミュニティが表面だけ自分には心地良いのか、本当はどんな見えにくいコミュニティに自分が守られているのか。そんなことも経験しなければ見えてこない。

で、私のうちは縁側が開け放ってあるから、疲れたら立ち寄ってくれたらいい。お茶も出すし季節によってはスイカがでるかもしれない。食べ物はなくても線香花火を一緒にやりませんか、と声がかかるかもしれない。

今の私の書くスタンス、方向はそんなものだ。

良かったら旅の途中たちよれるところ、としてちょっと覚えてて戴けたらかなり嬉しいです。

この記事が参加している募集

サポート戴けるのはすっごくうれしいです。自分の「書くこと」を磨く励みにします。また、私からも他の素敵な作品へのサポートとして還元させてまいります。