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【映画】家からの手紙 News from home/シャンタル・アケルマン


タイトル:家からの手紙 News from home 1976年
監督:シャンタル・アケルマン

観終わった直後に沸き起こった感情が孤独だった。孤独と言っても人によってはネガティブなイメージしかないかもしれない。でもひとりで街をぷらっと歩いている時の感覚と同じ様に、そこにいる人とコミットするわけでもなく、ただ日がな一日目的があってもなくてもほっつき歩く、そんは感覚に近い。どこかの店に入って店員やその場にいる人と話し込む事はあるかもしれないけど、それが街自体に馴染んでいる証拠かというと少し距離がある。ただ街の景色が自分の前に横たわり、その前を通り過ぎる。今でもそうなのだけど、僕自身も東京の街を歩く時、誰かに会いにいくというよりもただぶらぶらと喧騒の中を、街の景色をただ単に流れるまま受け入れる。その感覚があるかないかで、この映画の受け取り方は大分違う様に感じられるのではないだろうか。
1971年から1973年の間、アケルマンがニューヨークに滞在する中でジョナス・メカスに出会い触発されながら、メカスとは異なる街並みを撮影していたのは興味深い。メカスが日記映画をテーマに移民という出自の日常を記録していたのに対して、アケルマンはストレンジャーのまま街にコミット出来ない孤独感が描かれている様に感じられる手紙映画といえる映画だった。メカスの描く映像が例えばソール・ライターが写し取ったニューヨークの洒脱な世界に通じるのに対して、アケルマンの観たニューヨークの街はどこか猥雑でスレた感覚はカサヴェテスのザラっとしたものに似ている。摩天楼を横目に煌びやかなニューヨークというよりも、不況の最中のストリートのリアルな状況を写し取ったともいえる。廃墟や通るだけで車が上下するほどデコボコしている道など、綺麗さや美しい場面を切り取ろうとする姿勢は一切感じられない。ただあるがままそこにあるものを観たまま描く姿勢が、ダイレクトに突き刺さってくる。
面白いのが「ジャンヌ・ディエルマン」と「家からの手紙」が同じ時期に撮影されたという事である。「ジャンヌ・ディエルマン」はひたすら主婦の日常をつぶさに撮影していたが、「家からの手紙」はニューヨークの街並みと市井の人々の移ろいが主軸になり対照的な作品に仕上がっている。フィックスされたカメラの多様(パンしたりカメラは移動するものの)は、この2本に共通するある種のドキュメンタリー的なタッチがありながら、方やフィクションの世界であり、方や自伝的な世界であって対照的な作風になっている。どちらもハードコアな描かれ方であるものの、アケルマンの本質がなんなのかがよく分かる。「ジャンヌ・ディエルマン」以上に硬質な映画ではあるものの、メカス作品へのアケルマンの返答と考えると、色々合点がいく。視点が街の中心にいるのか、外側からなのかの違いが両者を隔てた部分なのではないかと思った。だからこそ、ニューヨークの街を港から離れていく描写を目にした時、止まることが出来ず街を離れていく彼女の心情が、排気ガスで燻られた街並みを遠巻きにしていたのではないか。

同時上映された処女短編「街をぶっとばせ」は、アケルマンが影響を受けたゴダールの「気狂いピエロ」のラストへのオマージュでもあり、ゴダールが持つパンキッシュさがストレートに初期衝動としてパッケージされている。ラストの描写にぞっとするが、この時点で「ジャンヌ・ディエルマン」の萌芽を思わせる、他愛もない日常の壊れた形を提示しているアケルマンの凄みは感じられた。

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