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大掃除で考えた『欠点の美学』

  描きかけの絵や殴り書きのメモ、本を片付けている。私の部屋はいつも、もしも他人に見られるなんてことがあったらきっと嫌われてしまう、というぐらいには散らかっている。ところで、見渡す限り、床にちらばっているのはプラスチックよりの方が多い。そのうち紙で部屋が散らかることなんてなくなるのかなぁ、とふと寂しくなる大掃除。

  最近、よく欠点の美学について考える。例えば先程の例のように、電子書籍なんかもそう。利便性を考えてみれば、電子書籍を選ぶに越したことはないはずだ。しかし、未だに多くの人が本棚に紙の本を並べる。紙はかさばるし、劣化する。それに、そこにある情報なんて0と1だけで表せるはず。スペースを取らずとも、画面の中だけで完結できる。何故、あえて形あるものに良さを感じるんだろう。

  、なんかもそう。写実性を追求してみれば、そりゃ写真には適わない。(もっと言えば、写真は現物には適わない) しかし、写真より絵が好きだという人は多いだろう。その魅力は、きっと描き手による解釈が加わることで作品が実物から遠ざかるところにある、気がする。ただ、写実性が著しく失われることは、言い方によっちゃあ欠点になりうる。写実性が著しく失われた絵には、どうしようもなく心を動かすような愛嬌、みたいなものがある。何故、あえて見たものを見た通りに示す写真より、絵を好む人が多いんだろう。

  夜行バス暇だしもうひとつ加えるとすれば、、なんかもきっとそう。明朝体、ゴシック体、PCで打っちゃえば規則正しく並ぶ読みやすい文が完成する。誰が打っても、どのようにして打っても変化しない、確固たる規則正しさがある。しかし、明朝体よりも手書きの文字に魅力を感じる人は多いだろう。整然とした文字から崩れた、共通認識ではない形。綺麗か汚いかで形容される手書きの文字は、時に、汚くたって美しい。何故、便利なプロトタイプから外れた文字の形に愛おしさすら抱くのだろう。

  きっと、情報を得るだけでなく、それを味わうために要する一連の過程、言わば『経験』こそが価値あるものとされているからだろう。それは情報を発信する側も同じく、伝えるために要する一連の過程にこそ愛すべき魅力が詰まっている気がする。

  この欠点の美学とやらは、生活の至る所で見られる。ピアノの演奏中に明らかに外れたような音があったり、八重歯が出ていたり、時には人の性格なんかもそう。完全無欠の人間は、完全無欠さ故に愛され難いかもしれない。すなわち、欠点こそ他人の積極性を高め、一見単なる感情のように思える「愛する」という"動作"を誘発しているのかもしれない。すなわち、愛するということはある種「欠点を理解し補う欲求に従う」ことも包含しているとも言えるだろう。何かの間違いでここまで読んでくださった皆さんも、是非、欠点を積極的に愛してみてはいかがだろうか。なんだか大学生風情がとっても偉そうだ。ではまた。

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