【遺書11】自分の意見なんてないから、読書感想文が得意だった
自分は子供のころ、読書感想文を書くのが得意だった。
実際は自分自身で「得意」とも思っていなかったし、「好き」でもなかったが。
ただ書けと言われたから、授業で書かされたから、宿題で書かなければいけなかったから、書いていただけだ。
にもかかわらず、とても評価されることが多かった。
なので、しだいに得意なんだなというふうに思うようにはなっていった。
仕方なく書かされた読書感想文や作文がクラスの代表として、学年の代表として、学校の代表として発表することになったり、賞をもらったり。
その後も、例えば学生時代であればレポートだの、小論文だの。
就職活動の時期であれば、自己PRだの、志望動機だの。
社会人になってからであれば、報告書だの資料だの企画書だのメールの文面だの。
基本的にNGを出されたり、大量に添削されたりすることはなく、むしろ模範解答やお手本として扱ってもらえることが多かった。
だからと言って、自分は文章力には自信がありますと自慢するつもりはない。
文章術を伝授しますなどと言って、上から目線で先生をするつもりもない。
読書感想文や作文、レポート、小論文、自己PR、志望動機、報告書、資料、企画書、メール・・・そんなものが苦手、書けない、というタイプの人もいると思う。
ただ単純に、文章を書くのが苦手、嫌いだという人もいるだろう。
また、発達障害などを抱えている人にもそうしたものが苦手な人が多いらしい。
自分の意見がない。
感想がない。
何を書けばいいかわからない。
自分の感情がわからない。
だから、書けない。
そんな人が発達障害の人には多いと聞く。
一方で、自分も発達障害(ASD)であると診断を受けている。
ところが、前述の通り比較的文章を書くことに関しては困らずに生きてきた。
発達障害の人にもいろいろなタイプがいる。
発達障害の人にも得意不得意がある。
それで終わってしまう話かもしれない。
ただ、一応自分なりになぜ、自分は文章を書くことが苦ではなかったかを分析してみた。
自分も大勢の他の発達障害の方たちと同じく、
自分の意見なんてない。
何かを読んだり、見たり、聞いたりしても「ふ~ん」としか思わず、感想なんてない。
自分が感動しているのか、興奮しているのか、悲しんでいるのか、感情がわからず、常に無表情であったりする。
自分が書きたいこと、伝えたいこと、共感してほしいことなど何もない。
そんな人間である。
そんなことに悩んだりする。
でも、じゃあ、なんで文章を大した苦もなく書けてきたのか。
評価されて、表彰されて、模範解答にされて、お手本にされて、という経験ができたのだろうか。
それはたぶん、みんなとは真逆の発想をしていたからだと思う。
自分の意見なんか書く必要がない。
自分の感想なんか書く必要がない。
自分の感情の動きなんか気にする必要がない。
自分の書きたいことなんて書く必要がない。
自分が伝えたい思いなんて書く必要がない。
自分が共感してほしいことなんて書く必要がない。
そんな風に考えていたからだと思う。
じゃあ何を書いていたのか。
相手(親、先生、友達、先輩、同僚、上司)が書いてほしいことを想像して書いていただけだ。
相手が喜ぶだろうなということを書く。
相手が欲しい言葉を書く。
相手が○を付けたくなるようなことを書く。
相手が評価したくなるようなことを書く。
こう答えてほしいんでしょ、と想像して書く。
こういう感想がほしいんでしょ、想像して書く。
こういうふうに感じてほしかったんでしょ、ということだけ書く。
こんな感情になってほしかったんでしょ、ということだけ書く。
そんな風に文章を書いてきた。
自分は人の目を気にしすぎてしまう。
相手のちょっとした仕草、口調の変化、反応の変化、そんなものにとても敏感だ。
「はい。」「うん。」相手のそんな相槌の言葉一つとっても、
いつもより暗い気がする。
いつもより語気が荒い気がする。
いつもより反応速度が遅い気がする。
この話は早めに切り上げたほうがいいのかも。
より詳しい説明をもう一度する必要があるかも。
話しかけるタイミングを間違えたかも。
そんなことを気にしながら生きている。
相手の状態や気持ち、感情、前の行動、次の行動、いろいろなことを想像し、推測し、最も適した対応をしなければと常にシミュレーションしながら生きている。
そんな自分にとって、
この著者はココに共感してほしいんだろうな、ということを推測して、「ココに共感しました。」と書く。
この著者はココに驚いてほしいんだろうな、ということを推測して、「ココに驚きました。」と書く。
先生はココに感動してほしいんだろうな、ということを推測して「ここに感動しました。」と書く。
この本を読んでこんな感想を持つ生徒であってほしいんでしょ、ということを推測して、そんな理想の生徒のフリをして、読書感想文を書く。
この企業はこんな学生が欲しいんでしょ、ということを推測して、そんな理想の学生のフリをして、自己PRを書く。
この研修を受講してこんなモチベーションの上がり方をする部下であってほしいんでしょ、ということを推測して、そんな理想の部下のふりをして報告
書を書く。
こんな風に文章を書くことなんて、めちゃくちゃ単純な事務作業だった。
ルーティンワークだった。
迷うことなんてなかった。
悩むことなんてなかった。
反対に、
自分の意見を書かなくちゃ。
自分の感想を書かなくちゃ。
そんな風に思っていたらおそらく何も書けなかったと思う。
早々に自分に意見なんてないこと、感想なんてないことを受け入れた。
相手の気持ちが手に取るようにわかるなんて言うと大げさだが、あながち遠からずな推測ができていたのだと思う。
だから、その推測をもとに書いた文章がある程度の評価をもらえてきたのだと思う。
とどのつまり、自分は発達障害だからこそ文章が書けたのだと思う。
こんなやり方で書く文章が正しいとは思わない。
こんな書き方は邪道だと思う。
自分の意見を持たないことが正しいとは思わない。
感想がないことが正しいとは思わない。
人の目を気にしろ、とは思わない。
顔色を窺ったほうがいい、とも思わない。
ただただ単純に、自分はそうだったというだけ。
自分の意見なんてないから、読書感想文が得意だったのだ。
ないのなら、ないなりに、ないことを利用して、生きてきたということだろう。
そして、それなりに評価されてきた。
悪くないことだと思う。
ただ、
今まで自分が書いてきた文章に、自分の意見なんて一度も書いたことなどなかった。
そんな事実についても、良いとも悪いとも、思わない。
嬉しくも悲しくもない。
誇らしくも恥ずかしくもない。
達成感も無力感もない。
充実感も虚無感もない。
やっぱり自分には感想なんてものは、特に、ない。
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