サブカルがオタクを憎む理由
宅八郎氏が亡くなり、Twitter上ではオタク側から彼に対する怨嗟の声が、かなり出ています。宮崎勤死刑囚の犯した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定第117号事件)と、宅八郎氏が演じたステレオタイプのオタク像が、オタクの悪いイメージを定着させた原因なんだ、と。あるいは「そもそも宅はオタクを馬鹿にしていたサブカル側の人間だ」と。そう、オタクとサブカルは90年代、憎み合っていました。それは、小山晃弘氏のこのnoteの指摘どおりです。
実態は、憎み合ってたというより、サブカルの側(の一部。和製サブカルと、別途呼んだほうが良さ気ですが)が、一方的にオタクを馬鹿にしていた攻撃していたのが事実です。小山氏の元記事、月額有料マガジンなので、申し訳ないんですが有料部分は読んでいません。ですが、自分が過去に何度か言及した点とも被る、重要な部分ですので。議論の切っ掛けとして背乗りさせていただきますm(_ _)m でもコレ、現在進行形でツイフェミがオタクに攻撃的な理由にも、通底します。では、グダグダの論考をば。
※今さらですが、タイトルを改題しました。こっちの方が論点がダイレクトに見えるでしょうから。
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■零落しつつある者と上昇気流に乗る者■
結論から言えば、オタクに攻撃的だったサブカルの中の一群と、攻撃されていたオタク(正確にはマニア層。オタクはマニア層の中でコミュニケーション能力に難が有った一群への蔑称)を、自分はこんな感じで定義しています。
これを理解するには、
・メインカルチャーとサブカルチャーの違い
・ハイカルチャーとローカルチャーの違い
そして学生運動の挫折とサブカル逃避について、簡単に知っていないと、ちょっと難しいかも…です。定義に関しては難しいのですが、手元の大辞林に項目がないものもあるので。Wikipediaが比較的良くまとまっていましたので、以下に引用しますね。
雑に括れば、大学で教えているような学問が、ハイカルチャーと呼べます。文系の法学や経済学や文学や語学や演劇などなど。理系の数学や医学や天文学や物理学や化学や土木建築学や農学など。芸術大学で教えているような音楽──ピアノやヴァイオリンなどクラシック音楽で使われる楽器やオペラなどの声楽や、絵画──油絵や日本画は版画などや、彫塑・陶芸・彫金・工芸などなど。新興の分野としては、写真や映画やジャズなども加わります。ここ、後で重要になります。で、ローカルチャーは大衆文化と同義です。
ここで書かれているように、サブカルチャーは、ハイカルチャーでもローカルチャーでもあり得るわけです。少数派はメジャーでもマイナーでも存在しますから。これが問題をややこしくしています。そして、これはメインカルチャーと呼ばれる物も同じです。メインカルチャーの中には、ハイカルチャーもローカルチャーも入っています。面倒くさい、混乱の元。ちなみに、ハイカルチャーの説明は、以下のような感じ。
判りづらいでしょうから補足説明。例えば、プロレス。大学にプロレス学部やプロレス学科はないように、ハイカルチャーではないです。でも、大衆の人気という点では、少なくとも昭和の時点ではゴールデンタイムに高視聴率を叩き出した、堂々たるメインカルチャーでした。なにしろ、ジャイアント馬場さんが亡くなったときには、NHKが速報を流したほど。つまりプロレスは、ローカルチャーでなおかつメインカルチャーの区分でした。今はサブカルに分類されますが。
チャールズ・チャップリンやバスター・キートン、ハロルド・ロイドの喜劇映画も、誕生当初は大衆娯楽でローカルチャーだった存在でした。しかし今では、アメリカの南カルフォルニア大学のような超難関大学の映画学科で、研究対象にさえなっています。映画自体がそういう意味では、比較的新しく誕生しローカルチャーからメインカルチャー側へと至った存在です。これに対して、サブカルチャーの定義はこんな感じです。
サブカルチャーの区分には、時代ごとにかなりの揺らぎがあります。もともと、メインカルチャーに対抗する・できる存在だった訳です。反体制を謳ったり、社会の常識や枠組みを否定し、破壊することを目的の一部にしていたり。ところが現在は、形骸化したり商業主義化して、すっかり零落した存在です。特に日本においては。故に略称のサブカルには、日本独自の意味合いが付きます。和製サブカルと呼んだ方がヨサゲ。
具体的に言えば、野間〝tpkn〟易通尊師らがバンドを組んでいたロックンロールやら、一部の芸術志向の映画などがそうです。
そして昔は、漫画・アニメーション・特撮・フィギュア・ジオラマ・ライトノベル・タレント・アイドル・声優・ポップミュージック……なども、サブカルチャーの一部と見做されていました。ここ、重要。試験に出ます。サブカルチャー側が一方的にオタクやオタク文化を敵視し、攻撃的な根本的な理由ですから。説明はおいおいやっていきます。なお、国によってはメインカルチャーが他国ではサブカルチャーであることもあります。
そして最後に、カウンターカルチャーの定義と説明を。
つまり、政権交代が可能な有力野党のような存在がカウンターカルチャーです。ビートルズがインドに傾倒したのも、キリスト教がメインカルチャーとして確固たる地位にあり影響が巨大な欧米文化圏にあって、対抗できる文化としてインドにそれを求めた、という側面があります。エジプト文明はイスラーム化して連続性がなくなっており、チグリス・ユーフラテス文明もイスラーム(特にシーア派)に吸収され、残る黄河文明は異質すぎる。インダス文明の後裔でしかもアーリア人の影響があるインドは、格好の素材だったのでしょう。
Appleの創業者の一人だったスティーブ・ジョブズが元ヒッピーで、若い頃はインドを放浪し、生涯ジーンズにタートルネックのセーターがトレードマーク=自分は背広にネクタイのような社畜にはならないという意思表示です。また、帰依こそしていませんが曹洞宗の仏教僧の乙川弘文に強い影響を受けていたように。それがキリスト教に対抗できる存在かどうかはともかく、東洋では仏教は大学で教えるメインカルチャー側にしてハイカルチャーの学問で、西洋の神学と同じです。機動戦士ガンダムのララァ・スンがインド人なのも、金髪碧眼のシャアと恋仲なのも、偶然ではありません。
雑に4つのセグメントにまとめると、こんな感じでしょうか。かつてはサブカルチャーでローカルチャーであったはずの漫画やアニメはメインカルチャー側に移動して、さらにはハイカルチャー側に行こうとしている。逆に、かつてはカウンターカルチャーとして、ハイカルチャー側でなおかつメインカルチャーであったロックは、オカルトとかと同じセグメントであるサブカルチャーでローカルチャーに堕ちて行きつつある(大槻ケンヂさんとかのせいではなく)。欧米はともかく、少なくとも日本では。
なお、オタクの定義や指す意味の変化については、下記のnote【原始、オタクは蔑称だった】も参照してください。
■サブカル落ちした側の苛立ち■
さて、本題。かつてはメインカルチャーに対抗できるはずだったカウンターカルチャーは、ポテンシャルを失い零落してサブカルチャーに括られ、反体制ポーズは形骸化し、商業主義化してしまった……と。ところがカウンターカルチャー側が馬鹿にしていた、自分の趣味に耽溺するだけで政治的な思想も発言も行動もない漫画・アニメーション・ライトノベル・特撮・ゲームなどは、大学などで教えるようなハイカルチャーに立身出世。落ちぶれた元カウンターカルチャー側からすれば、オタク文化の立身出世は嫉妬メラメラ、許しがたい事態です。
でも、宅八郎氏がオタクの象徴として手にしていたフィギュア(森高千里人形)はハイカルチャー入りこそしていませんが、一定のポジションを持ち、さらにケータイストラップや食玩という形で、日本の独自で高度な彫塑技術は一般にも浸透しちゃいました。もともと、根付や彫金技術は日本のメインカルチャーだったので、当然ですね。それに、人形の文化って元々が西洋も東洋も大人の文化でもあるんですよね。ビスクドールや文楽、生き人形など。誤解してる人が多いですが。
いずれにしろ、サブカルに零落した(させられた)元カウンターカルチャー側が「俺たちは腐っても鯛だ!」と誇っても、国公立の音楽大学にロックンロール専攻は未だにない訳で。欧米でも、かのバークリー音楽大学に、ジャズ専攻はあってもロックンロール専攻はない現実。そもそもロックは反体制の建前では、大学教育と馴染むかも疑問ですしね。ところが軽音楽は女子高生にも盛んで、ポップミュージックは相変わらず消費されます。サブカル側が一方的にオタク側を見下しても、現実的にはカウンターカルチャーは、鯛どころかメザシに零落しているのです。ここら辺の考察は、こちらのnoteも参照してください。
■迷走する元カウンターC■
その嫉妬や苛立ちから、零落したカウンターカルチャーは過剰にオタクに攻撃的なのです。ついでに、一括りにされたくないと、他のサブカルにも攻撃的ですが。もちろん、零落した元カウンターカルチャー人士は、それが嫉妬だとは絶対に認めないでしょう。ミジメになるので。しかも攻撃の理由付けに、幼稚だとかレベルが低いとか大人になったら卒業するモノだと、ローカルチャーとして昔は見下していたのですが、オタク文化が市民権を得るに至って、そこも難しくなったという現状があります。まぁ、未だに90年代の感覚で漫画やアニメを見下す、映画芸術誌や某直木賞作家様とかいらっしゃいますが。
そこで近年は「性的消費が〜」とか、倫理や道徳を持ち出して批判し始めてるわけです。ツイフェミと呼ばれる方々がそれ。本来のカウンターカルチャーは、キリスト教の禁欲的な文化に対抗するため、性の解放を謳ったはずなのに、です。フリーセックスやヘアヌードの解禁とかを進歩的文化人が後押しし、ヌードを芸術と認めさせるために、60年代や70年代は多くの闘争があったことを、今の若者は知らないのですが。高度に発達したカウンターカルチャーは保守反動と見分けが付かなくなった、と。発達という退行ですが。
D.H.ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』は世界各国で猥褻図書として発禁処分を受けました。日本でもチャタレイ裁判と呼ばれ、最高裁で敗訴が確定します。貴族の妻コンスタンスと労働階級出身の森番オリバーの逢瀬を描いた同作は、晩年の『黙示録論』でキリスト教のルサンチマンを鋭く批判したローレンスが、キリスト教的倫理観への疑義と人間性の解放を背景に、カウンターカルチャーとして執筆したのです。まぁ、エロいっちゃあエロいのですが。芸術と卑猥は同居できるので、問題なし。
■元カウンターCと異端メインCの悪魔合体■
ところが今は元カウンターカルチャーが、ツイフェミと手を組み、ふしだら憲兵に成り下がっている滑稽。ツイフェミのルーツを東京大学名誉教授の上野千鶴子御大辺りに求めるなら、ツイフェミは左派の零落がまだ波及していない、アカデミズムとマスコミの二大牙城の人間が中心です。意識的には間違いなくハイカルチャーで、なおかつメインカルチャー側の人間です。太田啓子弁護士や岩渕潤子講師といった高学歴で立派な肩書きの方々が、オピニオンリーダーなのも、このためです(蛇足ですが、学問としてのフェミニズムを体系的に学んでいない石川優実さんはこの点で、将来的に味方を背中から撃つ存在として、排除されるかもしれませんね。ツイフェミ界隈のフェミニズム理解も怪しいのですが、高学歴でそこは免罪されてる節も)。
でも、アカデミズムの左派への偏りっぷりとか、朝日新聞・毎日新聞・東京新聞に代表される左派マスコミの偏向ぶりは、デジタルネイティブの若者世代に批判されてます。少なくとも、評価はされていない。事実として新聞は、部数が落ちまくっています。朝日新聞は数年前に東大卒の新入社員がゼロの年があり、一律165万円の給料減で労働組合の副委員長が自殺。連結決算で419億800万円の赤字に、実売部数500万部割れで、社長が退任へ。まさに零落のまっ最中です。
アカデミズムの世界でも、研究費減の怨嗟の声が聞こえるのですが、科研費のデタラメな使われ方を見ると、鵜呑みにはできません。あいちトリエンナーレと同様に、公金にたかれなくなった人間の、恨み節がけっこうな割合のような……。そしてキリスト教左派という、どうもメインカルチャーかつハイカルチャー側ではあるけれど異端だったりする一群(メジャーの中のマイナーで拗らせている側)が、元カウンターカルチャーで零落した人々と悪魔合体して、SNS上で暴れてるのが令和の世。本来は相容れないはずの存在なのに、ルサンチマンを紐帯にしてくっついちゃった。
※無料はここまでです。既に結論や重要部分は記述してありますので、これ以降は興味のある方、投げ銭の代償に得したい人だけ、どうぞ。
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