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学校がグレる日

インターネットやAIの出現などにより、
学校の役割が劇的に変化した。
この流れは不可逆である。

しかしそのことを、おそらく
多くの人々が気がついていない。
"なんとなく"感じているのは子供たちだけだ。
このことを多くの人、特に教育関係者に
理解してもらいたいと思い記した。

1.歴史にみる教育ベクトル

 歴史的に振り返れば、明治政府による教育の目的は、国民国家としての国民の養成であった。つまり、日本を列強から守り、自らも列強諸国に連なるために、必要な能力と技術を備えた構成員の養成である。その共同体ニーズが、「身分に縛られず、誰でも立身出世によって豊かになれるよ!」というシーズを持っていたことで、人々のインセンティブと、丁度つり合あって学校制度は成り立っていた。
 ところが敗戦後に、アメリカ型の民主主義と資本主義が、教育の中に持ち込まれると「社会の構成員」を養成するというベクトルよりも「より社会的リソースを獲得できる個人」という資本を追求するベクトルの方が大きくなっていった。そういう流れに対するリアクションとして「管理教育」を捉えると、そこには共同体側の、自らの存在(倫理観や価値基準が、一定の閾値に収まった社会 : 以後ユートピアと呼ぶ)が消失してしまうかもしれないという潜在的恐怖が滲み出ている。このユートピア消失の恐怖は、実質的に「戦時教育令」が孕んでいた〈国が無くなってしまうかもしれない〉という恐怖と同じものである。他方、資本追求の流れに乗った一例である私立学校を考えてみたい。株式会社という形態で、学校というものを運営する場合、商品は「生徒」であり、生徒の商品としての価値を、できる限り高く加工できる教育や学校こそが、より良い教育や学校ということになる。「学歴社会」や「受験戦争」というものは、資本追求による生徒の商品化の賜物である。当然、そういった教育もまた、「詰め込み」だとか「人間性を商品にするな」といった倫理的・人権的観点から批判される。つまり、その時々に応じて学校教育というものには、複合的なベクトルが常に働いているように見えるけれども、結局は、ユートピア側からのベクトルと、資本主義側からのベクトルの間で揺れ動いていた。

2.学級とインターネット

 高校以下の多くの学校では、今も授業中に生徒がスマホを扱うことは禁止されている。これを支えているのも二つのベクトルである。一つは、生徒という商品の品質管理の問題。均質なスキルを備えた商品を生産するためには、スマホ(個体差)は害であるという考え方だ。つまり、どれだけ英語ができても、九九ができなかったり、自分の名前が漢字で書けないことは問題になる。そして、そういった個別の行動を規制するという行為から二次的に発生する、学校に象徴された「共同体の権威は個人に勝る」という、ユートピアの保護である。
 ところが、近年では個人のスマホの使用は不可でも、インターネットはOKになってきている。これは、電子化されている情報に限れば、教員の知見が、インターネットの集合知に全く及ばないため、インターネットを使用した学習の方が、既存の学習よりも遥かに効率的だからである。そもそも学級という仕組み自体が、いかに教育コストを削減できるかという試行錯誤の中で生まれた仕組みであったわけで、スマホをほとんどの人が使用可能で、各学級に派遣されていた教員の数を、インターネットとスマホが代用してくれる現在、使用するのは自然な流れで、知識の伝達に限って言えば、学級はもはや必要ない。

3.大学というフィルター

インターネットが普及して、学歴主義は隠蔽されたというのが私の実感である。学歴社会はより進み、と同時に、かつてならば、差別されていると感じていた学生が、差別されていることにさえ気が付かない状況が生まれている。就職活動の例をあげれば、大学ごとにエントリー期間が設けられ、人気のある企業程、採用コストを削減するために、特定の大学にしかURLを公開しない。あるいは卒業生がFacebookなどの閉じられたSNSで募集し、在校生しかエントリーできないというような形になっている。
 コロナ禍の中で多くの大学生が退学や休学をしたといわれている。私の見聞きした中では、入試倍率の高い難関校の学生は休学し、そうでないところでは退学者が目立った。「コロナによる御籠もり」によって、インターネットと接する機会が増え、自分で学びたいことが、自宅で学べることに気がついてしまったことや、だらけ過ぎて落伍していった学生が多かったと聞いている。しかし、休学の形をとった学生が、なぜ残ったのかという理由を考えれば、仮に大学の授業が形骸化し、レジャーランドと言われようとも、世間からみた時の、〇〇大学卒業というラベルを、アセットであると学生自身が感じているからだろう。もちろん、学歴は関係ないという意見も昔から根強くあり、スキルやアビリティで判断されるケースも業界によっては多くなっている。だからこそ、より大学生も退学しやすい世の中になっているのは確かであろう。しかし、自分たちが詳しくない分野の専門性をもった人材を、企業が獲得しようとするときや、採用コストを下げたいと考えている場合、学歴は依然として有益なスケールである。例えばデザイナーを雇う時、名門芸大の学生と、フリーランスで食いつないでいた中卒の若者ならば、大きな企業であるほど前者を選ぶのでは無いだろうか? 仮に、大学が何も教えていないとしても、高い競争率をくぐり抜け、4年で700万を超える無駄金を、支払うことのできる家庭で育った学生に、投下された文化資本は嘘をつかない。大学は当然研究機関でもあるが、研究とは無縁、とはいわなくとも、多くの学生にとって大学は、投下された文化資本を証明するためのフィルターとして機能している。逆に言えば、授業料を高騰させながら倍率を上げる努力のみが大学に求められているともいえる。

4.生活指導は誰の為か

 義務教育や高校には、校則やそれに伴う生活指導が存在する。髪の毛やスカートの長さがどう、とかいう類のものがそれにあたる。近年ではこの校則や指導が、人権侵害であるなどの批判を受けていたりする。しかし、この校則を支えるベクトルも、結局はユートピア側と資本主義側の、二つのベクトルによって構成されているため、たとえ校則が存在しなかったとしても批判を受ける代物だったりする。資本主義側のベクトルからみれば、制服や校則はブランディングそのものだからだ。例えば、藩校上がりの名門高校では、未だに男子校かつ学ランという形態を、頑なに守っているところがあるように、世間の認識を利用したマーケットイン、即ち、最も高値で商品=生徒を、出荷できるのかという観点で、校則や制服は決まっている(とみることができる)。だから、校則が無いのも、ノーブランドであることそのものが、ブランディングできていないと、批判を受けることになる。この観点から見た時、校則を破ることは、学校のアセットを毀損する犯罪行為そのものである。自身だけでなく、他人の家の窓ガラスを割って回っているようなものであり、他の生徒に対して強制的にリストカットを繰り返しているのと変わらない。当然校則違反の生徒には、他の生徒や保護者に対して賠償責任が発生する。反対にユートピア側からのベクトルから見れば、品行方正であるといったような何らかの価値観を、次世代の構成員にインストールする作業を行っている。「あなた達の為を思って言っているの」というセリフは、「あなた達を最も高値で売るために言っているの」というニュアンスを持っていないならば、確実に学校や教員や保護者サイドのユートピアを押し付けている。当然、押し付けられた側も異なったユートピアを持っているため、時代ごとに、腰パンや、ガングロなど様々な“ミーム”が発生することは、誰もがよく知っている。
 この校則や生活指導で、多くの学校が抱えている最大の問題は、インナーブランディングの欠如である。私立はともかく、公立の校長は経営の経験が無く、それぞれの教員自身も組織労働者という観点が薄く、保護者も自身を客だと思っている。

5.校則はバリューの一部

 「年長者を敬うのが当然」と思っている人でも、それが儒教由来のものであるということを知らずに、ア・プリオリに信じている人がいる。金髪だろうがピアスだろうが個人の自由だと、心の底から考えている人もいる。そういった人たちが、同じ学校に教員として赴任される可能性は普通にある。また、政教分離を謳いながら始業と終業に「礼」をし、清掃の時間には自ら掃除をするし、ヒジャブをつけて登校したら、きっと校門で呼び止められる場所が日本の学校だ。そんな中に、LGBTQ+や、インクルージョンというものが入ってくる。要するにカオスである。
 教員も労働者であるため、仕事の成果に対して誇りを持ちたいという欲求が少なからずある。だから、年配の教員の諦めた態度や、ルールの矛盾が存在することによる教員間の指導上の不一致は、著しく教員のエンゲージメントを低下させる。ある意味、教員側の校則違反によるアセットの毀損である。カオスの中で教員のエンゲージメントを上げ、保護者からのクレームを減らすのは、校則を厳しくしたり、緩くすることではない。ビジョン・ミッションを共有し、行動指針にまで落としこむCI戦略が必要であろう。民間営利企業で働く人には信じられないかもしれないが、私が目撃してきた公立学校の経営案は、全て校訓レベルのものである。

6.AI時代の学習

 AIに教科書を読み込ませて、テストを作らせると簡単にテストを作ることができる。勿論その答えを生徒がAIに尋ねれば、ほぼ満点をとる事ができるだろう。インターネットが生活になくてはならないものになったように、AIも必ず生活の中に浸透してくる。インターネット×AIは、鉄道×エンジンよりも大きなインパクトになって我々の生活に入ってくる。こういった中で、学習の価値と評価が、今まで通りでいいはずはないのは、誰の目にも明らかだろう。既にAIは、問題を読み込ませれば、アメリカの弁護士や医者の試験に合格できる答案を書くことができる。だから知識だけを比べ、作業効率を競ったら、人間の教員は全くAIに歯が立たない。しかし、全く訳の分からない問いを、AIを使って正解できたとしても、それは”知”と言えるだろうか? 当然そんなことはない。
 twitterである学生が、「自分が卒業制作で作ったUntiy用のコードの仕様を読ませたら、AIが1分で同じようなコードを書き出してきて、しかもちゃんと動いた」とショックを受けていたが、自分でコードを作ったからこそ、仕様をAIに読ませることができたわけである。つまり、ショックを受けていた学生がやった事こそが、AI時代の知の在り方の典型だろう。つまり、AIが出す答えが、自分の身体感覚と地続きになっているということを実感できているかということが、学習の評価の基準になるだろう。つまり、答えを出せるかではなくて、問いを立てられるかが重要になってくる。スプーンやメガネや自転車や飛行機が、身体拡張のサイバネティックであるように、AIは人間にとって、初めて現れた知のサイバネティクスであると捉えるべきである。卜骨占いで卦を立てるのではなく、阪神ファンがタイガースと同化するように、メタホリスティックボディとしての集合知を、肉体化していく必要がある。もっとわかりやすく言えば、自転車を乗るように、AIを乗りこなす必要がある。それに背を向けてしまえば、教員は学習の現場における自らの価値を感じられなくなるだろう。電車にも自動車にも飛行機にも船にも一人で乗れない大人が生まれることになるからだ。

7.子供たちの世界

 最近の10代は、コミュニケーションが下手というようなことが良く言われる。日本で、「コミュ障」と言われる言葉は、インターネットスラングとして2010年頃出現した。原因はともかく、コミュ障はインターネットと共に生まれたといっても過言ではない。1995年にインターネットが爆発的に普及した年に生まれた人々は、2010年には15歳。1984年の日本のインターネット元年に生まれた人でも26歳という塩梅だ。2023年には、それぞれ28歳と39歳になる。敢えてコミュ障が生れた原因を推測すれば、インターネットの直接的な影響というよりも、インターネットによって、マスメディアが徐々に死んでいったということや、公園の遊具が撤去され、異年齢集団で遊ぶ文化がなくなったことや、世間が全てコントローラブルであるかのような風潮が高まると、治安面や何か起きたときの責任問題が危惧され、近所の人の家に行くこともなくなり、両親以外の大人と接しなくなったのも、インターネットの始まりと重なる。だから今の子供たちは「8時だよ」と声をかけても「全員集合」となるものを持っていない。教室の隣に座っている人は、同級生だけど共通の話題があるのかすらわからない宇宙人だ。おまけに時代の移り変わりが早く、親世代の常識が通用しない。「そんな仕事やめなさい」と親が言う仕事程儲かり、前の世代からノウハウを学べない。繋がれるのはインターネットのみ。このような状況が、子供たちの、リアルにおけるコミニュケーションコストを想像以上に上げてしまった。極端な言い方をすれば、休み時間の教室は楽しい会話の場所ではなく、駅や空港の待合室のようなものだ。実際3年間同じクラスでも会話すらしたことがないという人の割合を調査してみれば、1984年と現在を比べた場合、相当増えているに違いない。だから、最近の10代は、家に帰ってからSNSでつながった人間とテキストベースでやり取りをする。さらに、そういう関係で育ったせいか、全ての答はインターネットの中にあると無意識に信じている節がある。さらに、私が見てきた範囲ではあるが、大人の失敗を恐れる空気を感じながら、安全性が確保された場所で育った子供は、アクシデンタルな経験が少なく、枠組みの外側に向かってチャレンジする意欲が少ない。恐らく枠組みの外側に答えを見出せないからだ。そういった失敗を極端に恐れる傾向があるのは、コミュ障ではない生徒からも感じる。VRだとかメタバースだとかいう前に、彼らの教室や遊び場の大半は、スマホ越しに見た社会であって、そういった意味で、若者ほど既にインターネットは肉体化している。それと同時に、スマホ越しの世界がひとつのバイアスであることにも気がついていない。空海が最澄に仏典だけが世界では無いと諭し、寺山修司が書を捨てよと言ったけれども、「コミュ障」が発生し、「イイネ!」が称賛されるのは、自己の世界の埒を開かないという、多様性に対する拒絶でもある。

8.もはや教師ではない

 個別の端末から、最新の論文にアクセスでき、大学の講義や良質な世界中の無料教材が溢れている現状で、知識や技術をインストールする授業に、もはや生徒や保護者は価値を感じなくなっていく。もし今日、最新の知識や技術を教えたとしても、教科書が改訂される10年後には、既に古典だ。無論普遍的な知識は価値を持ち、体得する必要がある技術は、今まで通り練習が必要だろう。しかし、先述したようなテクノロジーの発達した現在、教室には肉体を持った人間が集まる必然性を宿した、新しい価値が必要だ。そうでなければ、教室で話す教師の言葉は、神社で神主が挙げる「祝詞」と同じものになるだろう。既に自宅を含む、休み時間こそが彼らのインプットの時間になっている。だから、学校の授業時間というものは、かつての休み時間、つまり、それぞれが得た知見の中から創発が起きるような、問いを立てられるように仕向ける時間であるべきで、インプットの方向性を指し示すものにする必要がある。そのためには、生徒の中に内在している縺れを解いたり、生徒自らが足りていない領域に気がつくような授業が必要だろう。それは、カウンセリングであり、コンサルティングであり、メンタリングに近いものになるだろう。だから教師は、セラピストであり、ファッションアドバイザーであり、パーソナルトレーナーであり、司書であり、管理栄養士であっていい。学校はラーニングの場所ではなく、デコードの場所になり、教師は教えるのではなく、尋ねる人にかわる必要がある。

9.まとめの10条

以上が、私が考えていることである。
以下に、先述した今後の学校に対する提言のを箇条書きにしてみた。

Ⅰ 学校はラーニングではなくデコードの場所。
Ⅱ 知識を教えるのではなく、学び方を提案。
Ⅲ 教師は教えるのではなく、尋ねる人
Ⅳ 生徒が自己の内面を覗けるようにすること。
Ⅴ 繰り返しトライ&エラーを経験させる。
Ⅵ とにかく失敗を褒めること。
Ⅶ 自分を囲む境界を認識させ、越境させる
Ⅷ 沢山のバイアスを持たせること
Ⅸ 学校の実情に合わせたCI戦略を策定する。
Ⅹ Ⅸで、教員の意識を改革していくこと。

これはひとつの提案に過ぎないし、反対意見もあるだろう。
しかし、変化した事実には誰もあらがえない。
時間を戻すことはできないからだ。
 寺子屋のように、「かつて、学校というものがあってね」
というような昔話になってしまうのならば致し方ないのだが、
なんだか、私のユートピアがムズムズしたりもする。

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