おじいちゃんに会いに行く
先日、大好きなおじいちゃんが亡くなった。
年末に体調を崩してから入院し、わずか1ヶ月半の出来事だった。当たり前のように元気になって、家に帰るだろうと思い込んでいた。夏に行う予定のわたしの結婚式にも来てくれると、心から信じていた。
幼い頃の記憶
わたしは小学3年生のとき、おじいちゃんの家の隣に引っ越してきた。おじいちゃんは近所の商店街ではそこそこ有名な薬局を営んでいて、わたしはよく店に遊びに行っていた。裏口からこっそり入り、机の上で作業するおじいちゃんに学校のことを話したり、一緒にお菓子を食べたりした。
中学生になる頃には、店に行く回数は減っていた。部活で必要な備品代をおねだりすることや、塾の送り迎えをお願いすること以外でおじいちゃんに会わなくなっていたと思う。
いつも都合良く現れるわたしだったが、どんなときでもおじいちゃんは優しかった。「おう、麦!」というあいさつが、おじいちゃんの口癖だった。その柔らかく温かい口調が、わたしは本当に大好きだった。
おじいちゃんはおばあちゃんとも本当に仲が良かった。喧嘩しているところなんて一度も見たことがなかった。玄関を開けるといつもおじいちゃんはリビングにある大きな緑色のソファに腰掛けて新聞を読みながら、おばあちゃんの手料理が出来上がるのを待っていた。おばあちゃんはそれを嬉しそうに眺めながら、キッチンに立っていた。わたしはその姿を、今でも鮮明に覚えている。
お見舞い
年明けすぐにおじいちゃんがいる病院に向かった。集中治療室の一歩手前の病棟にいるという。父から15分だけなら面会できると伝えられ、わたしはおじいちゃんのいる個室に向かった。正直、どんな姿か想像ができなかったので、会うのが少し怖かった。
おじいちゃんは、ベッドの上に座っていた。呼吸器を付けて点滴もしていたが、思ったより元気そうに見えた。わたしに会うと、嬉しそうに手を伸ばしてきた。絶対に泣かないと決めていたのに、涙でマスクが滲む。どうしてもっと早く来れなかったのだろう。なかなか外に出にくい状況だからって、気にせず会いに来れば良かった。元気なときに結婚の報告をしたかったと、後悔が押し寄せてきた。
「麦は、良い女になったな」とおじいちゃんはわたしに言う。それが嬉しくて、子どもの頃のように「やったー!」と元気な声で答えた。
「夏に結婚式やるって言ったでしょ?東京の教会だからね、絶対に来てね!」と伝えた。おじいちゃんはいつものように優しく笑っていた。
これが、最後の会話になった。
豆まきの思い出
父からの連絡を受け、わたしはお通夜に向かった。おじいちゃんの家まで約2時間の道のりが、果てしなく遠く感じた。
家の前に着くと、人だかりができていた。家族葬にすると聞いていたのだが、どうしてもお礼を言いたいと近所の人たちが殺到し、順番にあいさつに来たらしい。改めて、おじいちゃんはたくさんの人に愛されていたんだなと感じた。
お通夜の後に父が言った。
「節分のときにそれぞれ豆まきの動画を撮って送れと言っただろう?あの動画を大音量で流して、ばあちゃんが横で一生懸命話しかけている中で、じいちゃんは最期を迎えたよ。じいちゃんの目に涙が浮かんでいた」
そういえば、おじいちゃんは節分が大好きだった。節分の日は絶対に毎年おじいちゃんの家と薬局に行き、盛大に豆まきをした。おじいちゃんの豆まきの仕方は少し変わっていて、空に向かって大量に投げるだけ。誰も鬼に扮しないし、どこにもぶつけない。ただ大声で「鬼は外ー!福は内ー!」と足の踏み場もなくなるくらい豆を投げていた。それが終わると嬉しそうに、わたしたちにお小遣いをくれた。
わたしはそれをしっかりと覚えていたので、撮影した動画でも豆を空に向かって投げた。叔父さん家族や弟たちが鬼に向かって投げている様子を撮っていたのを見て「おじいちゃんの豆まきじゃないな」と思い、「わたしの豆まきにおじいちゃんが一番喜んだはずだよ」と誇らしげに父に呟いた。
八海山と山田錦
お葬式では孫だからと一番前に座らされた。わたしは住職さんの声を聞きながら、おじいちゃんの遺影を眺めていた。そこで初めて、これは本当におじいちゃんのお葬式なんだと、実感した。
喪主である父が話す。
「父は皆様ご存知の通り、薬屋の店主でした。店を切り盛りしながら、3人の息子を立派に育て上げました。本当に、欲のない人でした。人が嫌なことは率先して引き受け、休みの日は大好きなお酒と山登りを楽しんでいる、そんな人でした。ただ、自分の寿命には、もう少し欲張ってもらっても良かったんじゃないかと、そう思いますーーー」
おじいちゃんの周りに花を並べているとき、おばあちゃんが泣き崩れた。ずっとそれまで気を張っていたのだろう。棺が閉じられ、火葬棟に行くまでの間、おばあちゃんの「やめて、いかないで、やだ…」という泣き声だけが、響き続けていた。
昼食を食べながら、テーブルに並べられた飲み物に目をやる。山田錦の小さな瓶が置かれていた。親戚がそれを見ながら「あの人好きだったよね、山田錦」と呟く。「みんなでお酒を飲むのが楽しそうだったよね」「事あるごとに集まって宴会をやったものだよ」「家のキッチンにも八海山とか色々並べられててさー…」とそれぞれおじいちゃんとの酒のエピソードを語り出した。
わたしは成人になってから、おじいちゃんと飲んだことがなかった。進学で地方に行き、遠く離れてしまったからだと思う。ただ、おじいちゃんは、昔からよく人を集めては、家やお店でお酒を飲んでいた。残されていたアルバムの写真も、飲み会の席のものがほとんどだった。本当にお酒が好きだったのだろう。
お葬式を終えて、わたしたちは家に帰った。駅から見上げた空が本当に青く、透き通っていた。よく晴れた日で良かったと、心から思った。
夢で逢えたら
それから数日間、わたしの精神はひどく不安定だった。5分おきにおじいちゃんを思い出しては涙で視界が歪み、お年寄りが出てくる番組は見れず、音楽を聴いても全ておじいちゃんのことを言っているように感じて辛かった。せめてもう一度会えたらと、何千回考えたことだろう。
仕事をしたり、家事をしたりして、少しずつ気持ちを落ち着けていった。次第におじいちゃんのことを考える回数は減っていった。こうやって思い出にしていけるだろう。そう思った。
昨晩、夜中に目が覚めた。滅多に起きることがない時間に珍しいと思いながらも、再び瞼を閉じる。なんだかいつもより身体が熱く、だるく感じたせいかもしれない。
再び眠りに落ちたときに、夢を見た。家族で何やら買い出しに行っている。どうやら地鎮祭の準備をしているらしい。おじいちゃんの薬局は数年前に店を畳んだときに、建物ごとなくなった。解体後も地鎮祭って行うのだろうか。これは夢だから、時系列がおかしくなっているだけなのだろうかーーー。
家族で料理をしていると、玄関のインターホンが鳴った。「じいちゃんが来たな」と父が言う。「え、だっておじいちゃん亡くなって…」「いいから開けなさい早く」「やだ怖いじゃん」「怖くねえってほら」と父とやり取りをして、一緒に扉を開けた。
そこには、少し目を赤くしたおじいちゃんと、隣に優しく笑うおばあちゃんが立っていた。
「おじいちゃん…」「おう、麦!」
いつものあいさつを交わす。なんとなくだけど、おじいちゃんは亡くなっている姿で来たことがわかった。おばあちゃんもそれがわかっていながら、寄り添っているみたいに見える。おじいちゃんは「少し叫ばせて」と言って後ろを振り向いた。
「孫たちは立派に成長したぞー!みんな元気だぞー!」
病気で声はあまり出ていなかったが、しっかり聞こえた。街のみんなに叫んでいる様子だった。よく見たら、柱の奥でこっそりと、親戚の人たちが温かく見守ってくれていた。
「麦、仕事を頑張りなさい。そして、弟たちと家族みんなを、よろしくなーーー」
その瞬間、現実に引き戻される感覚が強くなった。おじいちゃんの声がどんどん遠くなる。まだ話していたい、わたしはお礼を言えていない、いやだ置いていかないで、まだ行かないでおじいちゃんーーー。
はっと身体が起きた。あたりを見渡しても、どこにもおじいちゃんはいなかった。夢だけど会えた。伝えられなかったけど、言葉をくれた。妄想かもしれないけど、それでもいい。わたしには十分だった。
「会いに来てくれて、ありがとう、おじいちゃん…」
起きてからはしばらく、涙が止まらなかった。
墓石には酒を
わたしは夢で見たことを旦那さんに話した。「ずっと会いたがってたもんね、来てくれて良かったね」と優しく頭を撫でてくれた。「また会えたらいいな」とわたしはおじいちゃんの写真を見て、腫れた目をこすりながら、呟いた。
来月には、おじいちゃんの四十九日がある。そのときは、大好きだった八海山と山田錦を墓石に盛大にかけてあげよう。節分じゃないけど、豆もお供えしよう。そう思った。
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