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【#3】アラサー女子の失恋 煩悶する日々から夜の蝶へ

 萌花がスナックでのアルバイトをし始めたのは、1年前だった。きっかけは、失恋。そのときのこと。

 自分が考える自分と、周囲の中に溶け込もうとする自分は同じではいられない。大人になるにつれて、その居心地の悪さを自覚し、それが”大人”なのだと受け入れながらも、その差を縮めることは、実際のところ難しい。恋愛でも、自分の理想と、理想に近づけない自分とのギャップは生まれ、相手の思いを受け入れられず、すれ違い、溝が深まっていく。

 萌花は、堤と付き合っていた。いわゆる同期との社内恋愛だった。
 入社してから、何度か会議などで顔を合わせる機会も多く、だれが言い出したかは不明だが、同期の繋がる飲み会も月1~2回、行われるようになった。部署は違えど、先輩社員たちの愚痴は共通でストレスの発散場所、仕事の悩みの相談場所、同期との飲み会は気楽で居心地がよく、みんなで終電を逃すこともしばしば。一人暮らしの萌花にとって、制限がない自由な夜は、大人になった充足感を感じられた。

UnsplashのAndra C Taylor Jrが撮影した写真

 終電を逃したスーツを着た酔っ払いのガキ集団。「ここだと誰の家が近い!?ササッチんとこだな!」と、ターゲットは部屋を提供、皆で突撃、始発まで飲みなおす。眠たくなればその辺に転がって仮眠。ストレスを抱えた社会人2年目だが、学生のノリに戻れるのが同期の仲間だった。部屋へ上がり込んだ夜、「榊、俺と付き合わない?」と、整えられた眉毛がクイっとあがり、甘えるような目で見つめながら堤は言った。仲間だと思っていたところに迷っていたが、悪い気もしなかった。酔っぱらった勢いもあるだろうと萌花は笑ってごまかしたが、後日、彼に飲みに誘われ、本気だからと告白され交際が始まった。
 仕事は人を成長させる。学生のノリは、”ちゃんと”社会人的になり、皆やりがいにも目覚め始める。萌花も、同じように、最初は彼氏ができたことで、少し恋愛に夢中になった時期もあったが、恋愛が仕事の原動力になっっていった。萌花の真剣な仕事への取組みは、部長の目に留まり、責任のある仕事を任されるようになった。

📱出張がはいっちゃった。泊りになっちゃう。ごめん。
📱また出張?最近多いよね・・・
📱そうだよね。アフィリエイターをターゲットにする商品プロモーションが営業部で力入れてるらしくって。そのアシスタントなんだよね。ほんと、ごめんね。仕事終わったら、夜連絡するから。

堤と会う約束が守れない日もあったが、お互い大人として、その辺は理解をしてもらえていると思っていた。
 別れは不意に訪れる。堤が、”結婚する”というのだ。二股の上で、できちゃった婚という結末。夢にも思っていなかった言葉に体が強張ると、唇が怒りに震えた。同時に、既に彼を責める言葉が口からこぼれ出ていた。問いただすうちに、二股ではあったものの、できちゃうことも覚悟の上で、本気で付き合っていたということらしい。萌花に別れを告げるタイミングを考えているうちに、彼女の妊娠が先になったという。堤の話を聞くうちに、言葉を失った。怒りを通り越し、女性として、敗北の瞬間を味わった。

UnsplashのCorina Rainerが撮影した写真

 しばらく、ほぼ毎日1本のワインが空いた。思い出しては、涙がこぼれ落ち、悲しみを胸に押し返すようにワインをゴクリと飲むと、火がついたように泣き叫ぶ。光が届かない深海に沈んだように、見つけてもらえることはないと思う孤独な夜を味わった。堤から、ラインで大事な話があると呼び出さたときには、プロポーズを期待すらした。付き合って4年、そろそろ”結婚”という言葉も脳裏をかすめることもあったからだ。
 付き合っていたことに気が付かなかった・・・。自分は酷い裏切りに遭った被害者だと思うと同時に、自分の何が悪かったのか、そして鈍感さを責めた。全部忘れたいのに、頭に何度も浮かんでくる記憶。堤の隣で、顔を見上げると、堤が柔らかな笑顔を向けてくれた記憶。今その笑顔は、違う女性に向けられている。その女性というのは、大学時代からの萌花の友人だった。堤と付き合ってから間もなく、萌花は、友人を紹介したことがあった。堤が自分の友人を紹介してくれたからだ。家族や友人の紹介。相手の生きている世界を知る自然な成り行きが、人を傷つけるトリガーになるとは。萌花は、目くるめく記憶を打ち消すように、ワインをグっと飲みほした。

 失恋した萌花は、夜が面白くなかった。失恋から立ち直ることができていないことに気が付きながら、それを紛らわせる方法としてアルバイトをすることにした。お金に困っていたわけではない。仕事への集中が難しく、会社の人間関係だけでは、正直、息が詰まった。そして、部屋で一人で過ごす夜の孤独に耐え兼ねたからだった。夜の蝶の誕生だった。

スナックのおつまみ

「あー、石ちゃん、来てくれたのねー♪こちらどうぞー♪」
「ママ、こんばんわー。ね、今日凛華ちゃんくる?」
「凛華ちゃんね、くるわよー♪」
「じゃ、今日、白ワインいれちゃおかな」と心躍る声。
「ありがとうございます。石ちゃん、凛華ちゃん喜ぶわよー♪白ワインね。それなら、こちらどうぞ♪」

聖子ママ特性、ワインに合う中華風おつまみ】

  • 半熟煮卵

  • きくらげとごぼうの中華風炒め

  • 中華炒り卵にドライトマト添え

  • 生ハム&スライスゴーダチーズ

「ママ、ナニコレ、うまいね~。中華とイタリアンのミックスじゃん」
「いいでしょ。コレ、凛華ちゃんも絶賛なのよー♪」
カラン、スナックのドアが開く。上の更衣室で着替えてきた凛華が出勤した。

「あー凛華ちゃん、いらっしゃいました~♪」と、陽気なママの声が飛ぶ。
「凛華ちゃん、きたよー!」と石ちゃん。ジャケットからもわかる筋肉質な体をねじって、嬉しそうに笑顔を向け、こっちと言わんばかりに手を挙げた。
「あー!石ちゃん、いらっしゃいませー!来てくださったんですね♪」
凛華は隣に駆け寄り、にっこりと挨拶し、ワインボトルが入っているのを確認すると、
「ありがとうございます。少しテーブル回ってご挨拶してきますね、すぐこちらにきます。」
と、石ちゃんの肩へ、そっと触れた。
 今日はスナックはドレスデイ。聖子ママは、お客様を飽きさせないように色々と企画を立てるのがうまい。
 凛華の衣装は、今日はピンクのチューブドレス。「凛華ちゃんには、コレ・・どうかしら。うん、コレね!」キャスト思いで、面倒見のいいママは、ドレスを惜しみなく貸しだす。ママのドレスは、スパンコールやスワロフスキーが付いた煌びやかなものが多かった。萌花は、最初は抵抗があったが、人は次第に慣れるものなのだ。

ベイビーピンクのドレス

「凛華ちゃん、かわいいわ~」と、にんまりととろけて、石ちゃんがママにささやく。
「そうなのよね~♪あの子、ちゃんと常識があるし、品もあるでしょ。それに笑顔がいいのよね~。嫌味もないし♬」と褒め殺し。

「石ちゃん、お待たせしました♪」凛華がカウンターへ戻り、石ちゃんと笑顔で向き合った。
「凛華ちゃん、ドレス、すごく似合ってるねっ。」石ちゃんからハートがいくつも飛び出している。
「わあ、嬉しいです。ママが選んでくれたんです♪やっぱりピンク色って、テンションあがりますね♪」聖子ママが、うんうんと隣で満足そうにうなずいている。
「すごくかわいいよ。さ、凛華ちゃん、ワイン好きでしょ♬一緒に飲みたくってねー♪どうぞ」ご機嫌な石ちゃん。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて頂きます。」

 今日は少しワインを頂こう。
海底に落ちた夜。浴びるように飲んだ日々のおかげで、外でお酒に飲まれることなくコントロールできるようになった。凛華は、あの時の涙が、スナックでの仕事に役にたっていると感じながら、石ちゃんの差し出すワインボトルからワインを受けるために、カウンターにワイングラスを置き、フットプレートにそっと指を添えた。慣れた手つきで静かに注がれる白ワイン。注ぎ終え、グラスをお互いに手に持ち、微笑んで、グラスを上に少し掲げる。
「乾杯」
「乾杯、頂きます。」


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