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味蕾の未来

 白い小皿にビスケット、紫色の果肉入りソース、彩りを添えるためのパセリ。
 一口。少し癖の強い海の臭いが鼻腔を擽る。そして特濃の旨味が舌に満ちる。醤油の塩味もそれを追いかけて、最高のハーモニーを奏でる。
 平皿にクラッカー、上には白いチーズのようなクリーム、粗挽き胡椒のような粉を振りかけて、横にはバジルを添えて。
 また一口。プチプチとした食感と仄かな甘み、棘のない柔らかな旨味。そして後からやってくる辛み。揮発性のからし油が醸し出す突き抜けるような痛みが心地よい。
 丸皿に茶色のレーション、こちらはトッピングこそないが、ヨーグルトのような乳白色の液体に浸けて食べるらしい。
 恐る恐る齧ると、やはり美味しい。炙られているのだろうか、若干の食感の違いがある。絶妙な臭み、いやこれは香りというべきだろうか。燻製のような香しさとスルりと冷えた筋のない身がここまで相性がいいとは。先ほどと同じように醤油と山葵の辛みもついてくるが、それらは互いに打ち消し合うことなく、むしろ協調してメインディッシュを完璧な味わいに仕立て上げてくれる。
「美味しいです」
「それは良かった。微細な調整が必要なんです。このプログラムを開発するのに、10年かけてますから」
 話に相槌を打ちながら、箸を休めて、プラカップの中の黄色い液体を啜る。やはり日本食にはお茶だろう。舌も寛がせる憩いの味わいに思わずほっと一息。
「どこで修業を」
「第4コロニー内の寿司亭すじこです。あそこの師匠のコーディングは一級品で、いや、その詳細は機密ですが、本当に繊細で、古い日本人の味覚に合います」
「はぁ、それは凄い。日本人は食に厳しかったと言いますからね」
「へぇ、それはもう、とにかく鮮度や切り方、握り方に拘りが強く、少しでも電気刺激がずれると、再現できていないということになってしまう。厳しい世界です」
「なるほど、いや、それにしても美味しい。後味まで豊かだ。次を頼みます」
「へい、お待ち」
 小鉢に赤いゼリー、黒い粒々が入っていて、脇にはハーブが添えられている。
 スプーンで掬って口まで運ぶ。途端、舌の上で蕩ける。同時に脂身がジャポニカ米と合わさって、特上の旨味を演出する。
「これは!」
「はい」
 味わう度に旨味が染み出す。遥か昔、豊穣を極めた惑星を泳いでいた伝説の魚を想起させる、究極の美味だった。
「いや、まさかここまでとは」
「光栄です」
 私も、そして目の前でニコニコ顔を隠せなくなっている板前も、生涯でマグロを食べたことは、一度もない。
「マグロは、私にとって神のような存在です。いや、実を言うとこれは師匠の受け売りですが」
「はぁ、お聞かせ願いたい」
「御姿を見ることはもはや叶わず、ただ近似するものを再現し続けることしか、できない。私達の信仰の上で、絶対的な存在であり続ける、まさに神様なのです」
 聞きながら、私は二匙目を掬っていた。絶品が舌に飛び込むことを考えると、思わず涎が垂れてくる。
「似姿の究極形は各所で生まれています。しかし、まだ到達点には至っておりません。本物はいかなる電流を私達に流したのか、その究明は永遠に途上だと思っております」
「はぁ、しかし、これ以上は考えられない旨味です」
「はい、私も想像できません。それでも創造に挑むのです」
 私は板前の情熱に心を打たれた。上流の食に触れる人は、こうも違うのか。
 脳に流される電気信号は舌の上で、絶品を再現する。安物なら各所で出回っている。安いスモークサーモンや旬が過ぎた後のカツオのような味であれば学生の頃から手が届いた。しかし、この至上の電流は繊細な調節がないと成立しない。
「良い体験をさせていただきました」
「ありがとうございます。続いてこちらをお召し上がりください」
 出されたのは、筒のようなコップにエナジードリンクのような色の液体。
「ほう、締めのドリンクですか」
「左様でございます。お茶の類ではありませんよ」
 グイっと飲むとじんわりと磯の香りが広がった。口を落ち着かせる温もりと胃に優しい味わいで、気分が安らぐ。
「味噌汁でございます。仄かにあおさとハマグリの味があると思います」
「これはとても豊かな海を思わせます。見たこともないのに」
「ははは、私もですよ。でも、今でもこの味だけは残っています。私達の頭の中に」
 一気に飲み干してしまった。少し塩味が強かったが、海の幸に相応しい後味と満足感を残して、食道に流されていった。
「結構なお手前」
「ありがとうございます」

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