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気遣いの塩梅

人に気を遣う、それは自分にとって、至極当たり前のことだった。と言うか無意識。だから、人に対して気を遣えない人や、その人がする(しようとしている)言動を、自分のことに置き換えて考えられない人のことが、私は本当に苦手と言うのか、ありえない、無理って思ってた。



7年越しに、住野よるさんの「かくしごと」をふと読み返した今、思うことがあって。私は多分、大学時代、人に対して気を遣い過ぎていたなと。特にこの部分を読んだ時、内心、うわあ…と思った。

友達だと思ってる相手から過度に気を遣われることは、馬鹿にされることなんかよりずっときつかったりする。

住野よる か「」く「」し「」ご「」と「 p.163

この(うわあ…)はどういう意味なんだろう。ドン引きの意なのか、見透かされた気がしたのか、自分でも、これだ!と言える解に辿り着けていないので、敢えてそのまんまを書いてみた。

当時の、私の言動に対するあれこれ。それらは人から「私が(自分以外の)人に気を遣い過ぎていてきつい(しんどいとか、無理って意味で)」と思われていても、仕方なかったんじゃないかなって。

卒業して謝恩会も終わった数日後に私がLINEした時、きついって、ストレートな言い方じゃなくて、もうちょっとオブラートに包んだ言い方で、それを伝えてくれた子がいた。その子の言ってくれたことの意味が、読んでいて、また読み終えた今になってようやく、実感を伴って理解できたような、そんな気がする。

▼当時の記事。

あの時、自分の正義を振り翳して「相手の為に」って思ってしたことは、結局自分がいちばんかわいくて、脆弱な自分の偽りのプライドを、何とか誇示したくて、しているだけだったんじゃないかなって。

その子には当時から思っていたことなんだけど、あの時、それを敢えて私に伝えてくれて、ありがとうって思う。本当に、感謝の気持ちでいっぱい。ただそれだけ。

その子が「嫌われ役」を買って出るとか、そういう類のことじゃないと思っているし、そうであって欲しいけれど、本当に私に「気付かせてくれてありがとう」の一言なんだよな。その子からは「距離を置きたい」とLINEではっきり言われたから、既読をつけてそれ以降、返信はしていない。

正直言われた時、悲しかった。大泣きするくらいには落ち込んだし、結構引きずった。でも言ってくれたことのもとを辿れば、私が蒔いた種。それをわざわざ伝えてくれたのは、やっぱりその子の優しさなんだろうな。

だってわざわざ言わずに(こいつきついわ)って思って、向こうから勝手に距離を置くのだって、選択肢としてはあるはずで。でも伝えてくれたのは、その子が持っている優しさなんだと、私は思う。やり取りもその日から互いに一切していない。

だけど、来月はその子の誕生月。誕生日には、誕生日おめでとうLINEをしようと、密かに思っている。それとともに、今は適切な言葉が見つけられていないけれど、この感情も端的に伝えられたらいいなと思う。

大学時代、私はあまりにもいい人達に恵まれた(と思っている)。だからそんな環境に「自分なんか」が身を置かせてもらっていることが申し訳ない、自分には分不相応だと、ずっとずっと思って過ごしてきた4年間。

周囲に対して、例えそれが同級生で、かつ友達であったとしても。私は必ずどこか遠慮していたし、謙遜以上に自分のことを卑下してきた、そんな自覚がある。それは自己否定の強さや、自己肯定感の低さに、所以するものなのかも。因子となるものは、ひとつでは無かったと思う。


その頃の私と、真正面から向き合って離れずにいてくれた人達のことを、私は本当の友達だと信じたい。それは、今は距離がある人も同様で。あの時言ってくれたあの子のことも。そして、等身大の今の私とかかわってくれている人へ向けても、これからもよろしくねと、謝辞をする。

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