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「普通」に当てはまらない人達が、生きづらさを抱える世の中になっている

当たり前とか普通と言う言葉。私は好きではない。結局それは、相対的な概念だと思う。自分がその事象に遭遇した時に、例えば「これはAだ」と思うのであって、それがそのすべてではないことがほとんどなんだと、経験上私は思う。

だから自分にとっての当たり前や普通は、相手にとってのそれらとは限らないし、逆もまた然り。

ただその人が「A」と言う考え方をするまでの過程には、その人のそれまでの生活や養育環境、他には自身の性格や物事の捉え方等、人によって違うものがある。前提として、私と相手では、そもそもその基準となるものが違うんだと思う。

と言うことは、当たり前や普通は人の数だけある、と言っても過言ではないのかも。でもそうなるとそれはもう、普通ではなくて、いや、始めから普通なんてこの世になくて。

ただ一人一人がバラバラの「個」になっているだけ、とも言える?

よく、その人の立場に立ってとか、共感とか気持ちが理解できるだとか、言うけどさ。そんな簡単に言うなよって思うこと、時にはあってさ。

でもその多くは、相手の優しさなんだろうとも思う。自分と異なる環境に置かれたその人の状況を、自分なりに想像して共感したり、気持ちが理解できるって言ってみたりして。

そりゃあ自分は、その人ではないから、完全に「分かる」とは思えないのだろうけれど。それでも自分のことを「分かろうとする」努力をしてくれている、と言う風に解釈すれば、そこまでマイナスな気持ちにはならないのではないかなと思う。

どうして社会は、ことある毎に、普通と言う「枠」に当てはめようとするんだろう。

そもそも普通だとか多数派ってひとつに括るから、例えば障害者とか、新卒正社員として働くだとか。

結果としてそういう、世の中が思い描く一般的な「普通」に当てはまらない人達が、生きづらさを抱える世の中になっているんだと思う。

まずもって、一般的な普通ってなにって話なんだけどさ。

なんて、たかだか21年しか生きていないような若造が、偉そうになに垂れているんだって話か。

今日は特別、何について書きたいと思ったわけではない。ただ頭の中がなんだかごちゃついているので、整理したくて書いた。

読んでくださってありがとうございます。

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