動物園の話

毎年春になると、少しそわそわします。暖かくなり、人々が冬に比べて行動的になっているのを見て、何かしなきゃという思いが義務感のように沸いてきます。まあ、思うだけで何もしないんですけどね。淡々と毎日を過ごしています。

コロナのことがあってから、不要不急の外出はしていません。それが正しいことのはずなのに、なぜだか太陽が燦々としていて、やわらかい春の空気を感じると、外に出ないことに対する罪悪感のようなものを感じます。逆に土砂降りで、湿気をたくさん含んだ空気を感じると、外に出なくても許されるという安心を感じます。だって雨だし。濡れるし。完全に雨が免罪符になっています。自分でもよく分からない感情を抱えたまま、粛々と自宅を警備しています。

元通りになったらどこに行こうかな、という妄想を最近よくします。しょっちゅう外に出ていたタイプではないのですが、どことなく閉鎖的な雰囲気が漂う毎日に疲れているのかもしれません。
いくつか候補が思い浮かびます。映画館もいいし、美術館もいい。演奏会も行きたいし、ライブにも行きたい。予定していたフェスが軒並み中止になり悲しみに明け暮れていましたから。美味しいものも食べに行きたいし、みんなでお酒を飲んだりもしたい。

そうつらつらと考えていたときに、ふと思い浮かんだのが動物園です。キリンが見たいなと思いました。

小学校4年生のころです。担任の先生はとてもとても厳しい人でした。正義感が強く、曲がったことが大嫌い。生徒であろうと悪は容赦なく断罪します。小学生のわたしはその先生のことがとても怖かったです。一度怒られたことがあるのですが、内容よりも恐怖が記憶に残っています。わたしが悪いことをしたのだから怒られて当然なのに、先生に苦手意識を持っていました。ただ、ひとつ印象に残っていることがあります。

ある日の給食の時間でした。わたしの席は先生の机のすぐそばにありました。給食の際は、近くの席の子たちと机をくっつけて食べます。先生も近くにいますが、生徒同士でおしゃべりをしながら食べるので、話に入ってくることはほとんどありませんでした。
そのとき盛り上がった話題が、自分を動物に例えるなら何か、というものでした。各々が自己分析して発表していきます。私は猫かな、僕は鳥かなといったように。それぞれの発表に共感したり異を唱えたり、とても盛り上がったように思います。

わたし自身は犬と答えたような気がします。というのも、あまりこの手のことを当時考えたことがなかったため、ぱっと浮かんだ動物をそのまま答えただけでした。自分で言ったことに対して、ぜんぜんピンときていません。そのときに先生がいつものはっきりとした口調で言いました。「私はキリンだと思うよ。」

「あなたは睫毛が長くて、背が高いからキリンみたいだね。」

先生は続けてそう言いました。周りの子たちはキリンというワードに少し笑っていました。この手の話題にまさかキリンが出てくると思わなかったのだと思います。わたしも想定外の回答に曖昧に笑っていたような気がします。「キリン、かわいいよ。機会があったら動物園に行ってみて。」いつも怖い先生がにこやかにそう言ってくれました。そのときになんだか先生のことを誤解しているのかもしれないな、と当時のわたしはひっそりと思いました。

その件があってから、動物園に行くと他の動物よりも時間をかけてキリンを眺めるようになりました。今でもそうです。(もうほとんど行く機会もないのですが…)確かに先生の言う通り、キリンは睫毛が長くて、とっても背が高いです。あと、ちょっと眠そうな顔をしています。わたしはぼんやりしていることが多々あるので、そこが似ていたのかもしれません。キリンのイラストを見たりすると、何となく愛着もわきます。

後から考えてみると、わたしは嬉しかったんだと思います。よくある定型文のような答えではなかった先生の言葉が。宝物を見せてもらったときのような、むず痒い気持ちになりました。大人になってからようやく、先生はきちんと生徒のことを見ている人だったのだということに気づけました。今までのことを振り返ってnoteを書いていますが、わたしは人に恵まれていると感じます。幸せなことですね。

元通りになったら、動物園に行こうと思います。暖かい日にお弁当でも持っていけたらいいですけど、料理が苦手なのでそれは難しいかもしれません。家族を誘って行ってもいいですね。いろんな話をしたいです。

今は大変で苦しくて、悲しいことがどうしても多いですが、また日常が戻ったときにはキリンを眺めに行きたいです。