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ドローイングってなに?

▼これは何?
ドローイングはいいぞのnoteであり、ドローイングって何?という問いに自分なりに考えていることをまとめたnoteです。

ドローイングのススメを書き出したら大長編になったので分けました。

具体的なドローイングのやり方が知りたいんじゃい!という方はこちらをどうぞ。

手始めに、美術用語としての"ドローイング"の解説はこちら。

ドローイングは製図、図面などの意味ももつが、美術用語としては一般に「線画」と訳される。これは線だけで描く絵(ライン・ドローイング)を指すものである。つまり、単色の鉛筆やペン、木炭などで線を引くという行為に重きをおいて描かれた絵を指す。これに対して、絵の具を塗ることに重きをおいた絵をペインティング(painting)という。ドローイングは、しばしば素描やデッサンと同じ意味で用いられることがあるが、これはいずれの画面も単色的であるという点、線的であるという点が、その特徴であるということによる。また、水彩画をウォーター・カラー・ドローイング(water−color−drawing)といって、「ドローイング」として扱う際には、ペインティングは油彩によるものを指すこともある。

徳島県近代美術館  美術用語詳細情報より

このnoteはそれとはすこしちがい、わたしが日常的に"絵を描く"行為としてやっている方のドローイングについて考えています。例えばこういうの。
※キャプションはリンク先のインスタにあります。

きみの言葉
きみの言葉
虚
生命体
生命体
うずまき
うずまき
Portal (mock-up ver.1.0 for S)
Portal (mock-up ver.1.0 for S)

別にドローイングにタイトルやキャプションをつける必要はないんだけど、最近はタイトルをつけるブームが起きてる。自分の中で。

さてさて本題。ざっくり2年前にジャーナリングはいいぞのnoteを書きました。

ジャーナリングは、書く瞑想とも言われるワークのひとつ。
「いま、この瞬間自分に何が起きているのか?」

「自分はどう感じているのか?」
そんなことをただひたすらノートに書き出す。ただそれだけです。

ジャーナリングのススメより

手始めにジャーナリングと対比してドローイングについて考えてみようかな。

1.ジャーナリングとドローイングの共通点

自分の中にあるものを外に出すという点において、ジャーナリングとドローイングは共通している。すごく雑に言えば、ドローイングは非言語版のジャーナリングとも表現できる。ジャーナリングは文字で出力するけど、ドローイングは絵(点や線や面で構成されるもの、色はあったりなかったり)で出力する。

ジャーナリングは基本的にはいま、この瞬間を脳内から文字で排出してゆく行為だと捉えている。過去のことを書いてはダメというわけではないけど、それすらも流れるままに外にどんどん出していく。

ドローイングはそれを絵でやる。こともできる。
その懐の深さ、扱える範囲がジャーナリングと大きく異なる。流れる、っていうよりはすべてが層になって留まってゆくイメージ。その時々の一瞬一瞬を刻印していくようなところもある。

これドローイングとの対比ってよりは"絵を描く"との対比な気もしてきたけどまあいいか。

2.ジャーナリングとドローイングの相違点

2-1.言語/非言語領域のどちらも扱える

ジャーナリングには助けられてきたし、効果も感じてきた。でも、ジャーナリングは文章で出力する行為である以上、明確な制限がふたつある。

ひとつめは、言語領域しか使えないこと。もちろん言語領域で扱える範囲もすごく広いのだけどね。

ふだん私たちは言葉を使って考え、他者とコミュニケーションをして生きている。言葉を扱うことが上手になればなるほど、微細な感覚や抽象的な概念なども含めた全てを言語領域で扱える気になる。

コーチングをある程度学んで、ジャーナリングを通してのメタ認知に慣れた頃の自分もそう思っていたのだけど、これは盛大な勘違いだった。詳しくは”絵を描く”と出会ったときの記録で伝わると思うので置いておく。

言語での表現もすきだし、それを信じてもいる。だからこそ、万能ではないとわかっておくことが大事。

言語で扱える領域をひとつの大きなテーブルと例えると、”絵を描く”つまり非言語で扱える領域は別のもっと大きなテーブルが増えるようなものだと思っている。

絵に文字をぎっしり描いたっていいしね。

2-2.意識化/無意識下に関係なく扱える

ジャーナリングの大きな制限のふたつめは、言葉になっているもの・なりそうなもの、つまり意識上にあるものしか扱えないこと。

ドローイングに限らず”絵を描くこと”に共通するのだけど、まだ言葉にならないもの、言葉にしたくないもの、意識の奥底に沈んで(あるいは無意識に沈めて)いるものが引っ張り出されることがある。

キャンバスに現れる前の、色を選ぶ行為にすら、持っているものは出てしまう。これじゃ逃げようがない。ごまかしようがない。言語の領域ではぜったいに扱えない厳しさとやさしさが満ちている。

アート合宿を終えて、はじまりがはじまるまで

普段は必死で隠して取り繕っているような、迷いやためらいや恐れ、執着、葛藤、戸惑い、怒りや虚しさも出てくる。出そうと思っていなくても出てくることもある。

でも大丈夫。他者にぶつけると関係性が壊れてしまうようなものでさえ、”絵を描く”は全てを受け止めてくれる。

氷山がそうであるように、水面下に隠れている部分の方が大きいし重要だったり本質だったりするのだけど、触覚や視覚を使って”絵を描く”ことで、そこにさわれることがある。

これは言語領域では辿り着けない深度。そこまで潜らないとさわれないものは確実に存在している。だからこそ、最初はものすごく抵抗感が大きかった。特にキャンバスを使って絵の具で描くのは死ぬほど怖かった。

自己表現をすることそのものへの怖さもあったし、「全然すきじゃないんだけど…」と感じるものを生み出すのではないかという怖さで身動きが取れないタイミングもあった。

やっぱり今でもキャンバスに描くにはすこし思い切りというか勢いというか、そのために環境や自分を整える必要があるなと思う。

その点ドローイングは気軽なのがいい。ようやくドローイングそのものに話が戻ってきたけど、絵を描く"の中にドローイングが含まれているから、分けて書くのが難しいな…

主にはじめるハードルの高い低いが違うだけで、本質的には同じものと考えています。

3.ドローイングのいいところ

ドローイングは、紙とクレヨンがあれば始められるし、気に入らなければ簡単に処分できるし、ハードルがずいぶんと低い。

非言語のジャーナリングみたいな排出の要素もあるけどそれだけじゃない。いまこの瞬間を色と線と面とで出力することもできれば、過去〜現在〜未来を載せることだってできる。

具体的な物を描いてもいいし、名もない何かを描いてもいいし。

とりあえずたくさん描いてみることで見えてくるものがあります。

100枚ドローイングで描いたものたち

4.非言語の自己表現における”絵を描く”の特殊性

非言語の自己表現のなかでも"絵を描く"は特殊な行為だなと思う。特にモノをリアルに描写する写実画と違って抽象画の場合は、以下のような特徴がある。

  • 音楽やダンスと違ってはじめるのに必要な技術がほぼない

  • 意図を持たずに表現してから解釈することもできる

    • 対話型鑑賞会などで、他者からそれを受け取ることもできる

  • 手や足を使って描くなど、身体的な営みにもなる

  • ルールやセオリーによる制限が本質的にはない

  • 画材による拡張性がある

    • ここらへんは次のnoteで書きたい部分

  • 現在・過去・未来すべての時間軸を載せることもできる

5.結局、ドローイングってなに?

2023年2月現在の自分なりに定義してみると、ドローイングとは、意識化/無意識下に関係なく自分の中にあるものを外に引っ張り出し、可視化する行為である。

まとめ

わーって書いてきたけど、たぶん実際に描く方が早いな。

ジャーナリングと一緒で、毎日続けたらなにか起きるのかもな〜〜と思って描いてみています。

たまにTwitterにもアップしてる。

キャプションはインスタで書いているので、よかったらこちらも眺めてみてください。
(何回やっても埋め込みがうまくいかない!!!)

今日のBGM

The Garden/Stafford Bawler

めちゃくちゃすきなMonument Valleyというゲームのサウンドトラック。絵を描くときにこのプレイリストをよく聴くのだけど、だいたいこの曲から聴きはじめます。よくわかんないけど、なんかいいんだよね。

不可能立体がすきなひとにはたまらんゲームだと思うのでよかったらぜひ。スマホでもできるし、Streamでも配信されているらしい。

今日のサムネイル

Portal (mock-up ver.1.0 for S)
キャプションはインスタにてご覧ください。

それでは!🦕〜〜

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