孕みたてなかばの野良女はカタツムリになりたい
どうして人間は子宮のある個体とそうでない個体に分かれているんだろう。細かい顔のつくりこそ違えどひとつの頭に胴体と手足、脳と胃袋と大腸小腸、頭蓋骨から脊椎・大腿骨、おおまかなシルエットやパーツは同じなのに子宮という臓器をもった方にわたしは生まれた。そしていまその臓器がどんどん膨らんでいくその中で、別の人間の心臓が動いている。
私事で恐縮ですが、現在第三子を妊娠中です。今年の冬に出産予定です。
母子手帳をもらいにいった時のことを元に「のらめ」という詩を書きました。(日本現代詩人会への投稿第25期にて入選をいただいております。ありがとうございます。)
全文と講評が以下HPにてご覧いただけますので、よろしければぜひ。
また、本作「のらめ」の朗読もしてみました。
ちょうどバチェロレッテ1に出演されていた福田萌子さんが昨日、懐妊したことと安定期に入ったことを公表されていらっしゃいました。(バチェロレッテはまだ観たことが無いのですが)同じ名前でしかも妊娠週数も近そうなこともあり、とてもタイムリーなニュースで驚きました。
発表されていた自筆メッセージの言葉が印象的でしたので、少しご紹介を。
「妊娠や出産、結婚は全ての人に当てはまる幸せの形でもないと思っています」という部分に深く頷かされました。
少しといいつつほぼ全文引用させていただきましたが、本当に、結婚や妊娠・出産のご報告となると必ずといっていいほど「おめでとう」とお声をかけていただきます。確かに個人と個人が家族となり新たな家族が増えるという稀有なことに、わたしもそんなご報告を受けたならばきっと「おめでとう」と言うと思います。
人にもよると思いますが、嬉しいことや楽しいことがある反面、思ってもいなかったような大変なこともあり「なにが"おめでとう"なんや」といっとき思ったこともありましたが、結婚や出産を経た先におそらく訪れるであろう大変な諸々を含めての(だからこその励ましを込めての祝福)「おめでとう」なのかなと今では思っています。(このことについては「祝呪」という詩に書きました。月刊詩詩ココア共和国2021年7月号電子版掲載)
わたし自身、結婚して子どもを産むまでは"そうなったらいいな"という思いを持って、福田さんのいうところの「自らの選択で望んだ」結婚・妊娠・出産を経てとても有り難く、家族や周りの方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
その一方で、特に妊娠と出産については個人的に考えさせられるところが大きく、この気持ちがなんなのかわからないまま3度目の出産を迎えようとしています。
もちろん、子どもたちは(お腹の子も含めて)かわいくて毎日子育てという名の自己鍛錬に七転八倒しているところなのですが、妊娠という現象がどうしてもよくわからない。わからないから書きたいと思いました。2度の出産を経てもまだまだ興味が尽きません。
女体はどうして母体になるのだろう、肉体的精神的な変化、孕むこと産むこととは、なぜつわりがあるのかないのか、なぜ人は人を産むのか。なぜ男と女なのか。
もしも人間に性別がなかったら。
カタツムリみたいに雌雄同体だったら。
オスとメスの区別がないカタツムリでも単体では卵を産めず、必ず番になって管を交換しあうようです。いくらジェンダーフリーや多様性が進んでも人から出てくる人の肉体はどちらかの外性器を持って生まれてくる。そしてその片方の腹の中からまた人が生まれてくる。それってどういうことなんだろう。生まれ変わるならカタツムリにもなってみたい。
子宮を持って生まれた側の、人生のひとつの選択肢に「産む」という道が存在すること。
もちろんその選択を選ばない人もいる。希望しても別の状況になる人もいる。それでもその選択肢が妊孕できる子宮を持って生まれた側に少なからず発生するということ。それってどういうことなんだろう。
書いていて既によくわからないのですが、そんなことを考えています。いまちょうど両性具有の天使(らしき存在)が出てくる本を読んでるのでその影響もあるかも知れません。(『セラフィタ』バルザック)
ちなみに男性が父親になるとは、というのも相当興味を惹かれる話だけれども現在は母体の話がしたいです。(女体と母体の対義語ってなに?男体と父体?)
子宮にまつわる話はとても個人的なことなので、あくまで個人のいち体験としてしか書けないのですが、"女なるものに区分される肉体を持った"ひとりの経産婦として妊娠・出産・育児にまつわるなにごとかをマガジン【妊産育日詩】で書いていけたらと思っています。
前回の出産ではちょっと変わった経験だったので、今回はどうなんだろうと思いながらちょっとどきどきしつつ、いつかそのへんも書けるなら書きたいです。
それではまた。
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