見出し画像

身体を通して生態系を学ぶ@大山 part2


坂上萌(Moe Sakaue)です。リジェネラティブデザインについて勉強しています。鳥取大山で、里海の生態系の循環を調べながら、人が身体を通して世界に気づきなおし、自然を学ぶ体験やツアー作りをしています。そしてこの地で「mimori*」というプロジェクトを立ち上げました。山川海全てを「森」「流域」として捉え守ってきた人を「水守」、みもりと呼ぶことがあったそうです。先人の仕事や知性の痕跡を辿りながら、人と人、人と自然が共に生き、繁栄するために、これからの時代に「土とは何か?森とは何か?」この世界で「生きること」を再定義したい。世界観が変わってしまう体験を届けたい。どうしたら人の認知、そして視座を変えられるのか考えています。

前回に引き続き、「プラネタリーヘルス・ツーリズム」での体験記。
自然とは本で読み、論文で正確な情報を得るものと思っていた頭でっかちの私にとって、世界に気づきなおし、体で学ぶことで気づくことで今までと違う視座に出会えることを知りました。
「何があったのか?」忘れないように残していきたいと思います。

神社の参道は先人が残したメッセージがある?

神社の参道で気付いたのは、森を成り立たせている生き物の連環が神社の参道から学べる事実。仏教以前から続く磐座信仰は、火山列島である私たちの島の岩盤がどういうものなのか。森が始まる仕組みを教えてくれています。
「しめ縄」も土中に働きかける仕事に似ています。本来、神社は自分の願いを伝えにいくのではない。先人が歩いた道を同じように歩くと見えることがあるように、神社の参道も、自然の摂理を洞察させてもらえる道のデザインであったのではないか?と思わずにいられない時間でした。

大神山神社参道

水と一体化する

水は私の体の60%を構成し、空気中にも常にいる存在。
しかし、日頃からそれに意識的になることはあまりない。川に流れ込む水がどこから来ているのか。これまで考えたことはありませんでした。

大神山神社へのお参りをした後は、沢登り。
頭まで水に浸かり、全身で川の生態系を観察しました。ところどころ、磐座クラスの岩がゴロゴロあるのがこの川のすごいところ。40万年〜60万年前にできた岩盤の上に流れています。
そんな岩を見るたびに、苔がつき、鳥の糞が落ちて、種子が着き、芽が出て木となる森の始まりを語ってもらい、とてつもない長い時間を想像しながら進みます。

苔の観察。顔が近すぎました笑

岩から滲み出る水を発見!

岩盤の上に森が形成されているのがよくわかる。
縦の亀裂からは水が滴っている。

頭上を見上げると岩の上に薄い土があって木が生えています。
岩盤は縦に罅が入っています。どうやら、木の根が長い間かけて砕いている様子。そして見えないけれど、川底にも木の根は張り巡らされているそうで、その木々が呼吸をするほどに根の先から水を吸い上げます。大きいブナの木であれば、1日に100kgも吸い上げるほどだそうで!
実際に水に入りながら、考えることで
岩の隙間にどこまでも広がる根っこが水を吸い上げて、地表の植生や土中の微生物を涵養する姿を感じました。

そして海へ

最終日は海。この大山の麓「淀江」という場所は大陸から人が渡来する世界の「玄関」であったそうです。6000年前から人が住んでいて、集落の形、湧水は変わっていない可能性がある!とお聞きし大興奮。古墳の集積率は奈良よりも高いそう。
大山さんを望み、カヤックで、ぷかぷか浮いてみました。大陸から来た人は、きっと大山さんを目印に渡ってきたのだ。そんな遥々ここを目指した人たちに思いを馳せながら、ゆったりと海に浮かびました。

目の前に大山さん
1日の終わりに望む日の入り@島根半島

1日の終わりには海に足をつけて日の入りを眺めます。島根半島はかつて黄泉の国と呼ばれていた。この地は「根の国」高温多湿で何事も腐る場所。古事記を紐解くと、腐る→死から、生。新しいものが生まれる。そういう死生観を持っていたことが分かります。そんな悠久の時間に体を預けました。

日本海の海は干潮差がほとんどない。凪の日の海は、海底から湧き出る湧水の影響でびっくりするほど透明度が高い。海から、山や川の水を思い出し、森里海の連環を再確認しました。

半径3kmの食事でつながる山川里海


ブナの原生林でいただいたおにぎり。山から海の幸が詰まっています。

とても重要だったのが毎度の食事。
地元の人と地元のものを食べて、三日間を過ごしました。食材を口にする度に、プログラムで回った山、川、里、海と繋がりが想起されます。特に水に触れることが多くあったため、水への感度が高まりました。最終日に気付いたことは「私の体はもう大山さんの一部だ!」ということ。自分の中に流れる血液の脈と川で感じた水流がリンクしていく。二泊三日で接続した水が走馬灯のように駆け巡りました。
古来の人は、山から立ち上がる雲を見て「龍神様」と感じていたらしい。水が顕現する科学現象・摂理そのもの、それに生かされていると思ったのではないだろうか。大山さんの恵みをいただいた私の体にも「龍がいる!」そう思いました。

「流域」とはなんだろう?


山川里海と水の流れを三日間かけて辿ってみる。食事を通して土地につながってみる。一つひとつのプログラムが自分の体と心にスイッチを入れて、少しずつ感じることが変わっていき、三日後にはこれまでとは違う世界が見えてしまうようなそんな気がしました。「生命の網の目」に生かされ、そして私たちも誰かを生かしている。日頃は感じづらい「繋がり」を取り戻せる時間でした。それと同時に、「流域とは?」「森とは?」「どこまでなのか?何からできているのか?」無数の連環になりたっていて、山から海まで全てがどこまでも「流域」「森」であるのではないかと思ってしまいました。分けられない関係性そのものに生きる私を自認できる。そのこと自体がとても価値のあることだと思いました。

旅とは何か?
かつてメッカ巡礼も、各地のお寺巡りも、自分の欲を叶える場所ではなくて。歩くことで、世界に、自分の人生のミッションに気づくことであったはず。土地の人に出会い、素晴らしい先人の感性に触れて、自分が変容してしまうものであったのではないか。旅とはそんなものであったのでは?と思います。
あらゆるものをすごい勢いで消費する時代。
自分の感性や価値観を表現しようとすればするほど、他者を消費しているような気がしてしまう。自分や他者、様々な命とのつながっている自覚を持つことで気づくことがある。

そんな旅に出会えて幸せでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?