紫陽花の咲く頃に

 雨でけぶる六月の毎日に、きよらは一本の稲妻のように僕らのクラスにやってきた。
 雨でじとじととしたモノトーンの世界できよらだけが鮮やかな色合いを放っていた。
 その頃、僕らクラスメイトたちは、五月の終わりに行われた小学校での最後の運動会を終えて、妙な団結力というか、どこか皆繋がっているような心地の中にいた。心と心が温かい光りの細い糸で繋がっているような不思議な感覚。そんな結束力に満ちた教室の中にきよらはポップコーンの粒が弾けるようにぽーんと飛び込んできた。
 先生が黒板に「水戸きよら」と彼女の名前をチョークで叩きつけている間も、クラスメイトたちが新しい来訪者にどよめいている間も、きよらは真っ直ぐ正面を向いて、何にも動じなかった。背筋をぴんと伸ばし、アーモンドのように大きく丸い瞳でただ前を見据えていた。
 先生が、彼女のお母さんは、今度近くで行われるサーカスの団員で、日本中を飛び回っていると、興奮気味に生徒たちに伝えた。クラス中は一層きよらに関心を見せたが、きよらは依然として真っ直ぐ前を見つめていた。
 休み時間になると、クラスの女子がきよらの元へ話を聞きに行こうとしたが、きよらはチャイムが鳴るほんのコンマ数秒前には自分の席を立って、教室からさっさと出ていってしまったので、女子たちはきよらと話すことが出来ないようだった。
 それがほんの一度や二度だったら女子たちも声を荒げることはなかったが、誰がどう見てもきよらはクラスメイトのことを避けていたし、見向きもしなかった。
 「こそこそして泥棒みたい。何か後ろめたいことでもあるのかしら。私あの子の声、ちゃんときいたことない」
 一人の女子が、もう堪らない、といった風に呟いた。すると周りの女子たちから堰を切ったかのように次々ときよらに対する罵倒が溢れ出た。
 放課後、動物係の僕はウサギ小屋の掃除と餌やりを終え校門を出た。前方におしゃべりに夢中になっているクラスの女子たちが歩いている。空は暗雲に立ちこまれ、今にも雨が降り出しそうだった。
 「どうして女ってもんは、ああも集団で行動したがるんだ? 鰯みてえだ」
 いつの間にか僕の後ろに立っていたきよらが、前を歩く女子に毒づいた。
 「安心なんだよ。君と違って皆まだ自己が確立していない」
 僕は諭すようにきよらに言い聞かせた。きよらはどうでもいいような、つまらなそうな、それとも全て分かりきっているかのような、何を考えているのかよく分からない顔をして唇を尖らせた。
 「おい。またあの飯を食わせろ」
 
 僕の家は定食屋だ。町の商店街から少し離れた所にあって、一階が店で、二階から上が僕ら家族の家になっている。軒下に提げられたのれんの紺色も、店の料理の名前が紡がれた紙の色あせた黄色も、幾度も布巾で拭われたカウンターやテーブルの木目色も、日常のなかの当たり前のものだった。いつもと変わらない店の佇まいと、なじみの客。
僕はその日、学校が休みだったから店の手伝いをしていた。客の注文をとり、料理を運び、勘定を承った。割と幼い頃から手伝わされていたので、僕は特別なこととは感じていなかったが、店に来る客が、会う度に「康介君は偉い」と言うので、僕はその都度適当にあしらって、別段偉いようなことは何もしていないのにな、とぼんやり考えるのだった。僕にとって店を手伝うことは身体に染み付いたルーチンワーク。同じ事をして、同じ店の中で、同じように時間を費やす。生きていくことって、もしかしてこんなものなのかな。繰り返しの流れの中に身を任せて、気が付いたらとっても遠くにいるような。でもそれに気付かないふりをして皆生きているのかな。そう思うと世の中の大人たちのことが不憫に思えて仕方なかった。
客のピークを過ぎた午後に僕は店を出た。両親は遅めの昼食を取って夜の仕込みを始めた。
 外に出ると、霧雨が辺りを覆っていた。白黒写真を切り取ったような世界。僕は傘を開いて一足一足、踏みしめるように店の裏に茂る雑木林へ向かった。店の裏には東京とは思えないような林が広がっている。僕は生まれてから一度もこの町を離れたことが無いので、詳しいことは分からないが、そこが都会らしい場所ではないことは知っていた。そしてその所謂、僕にとっての都会のオアシス的な場所に暇さえあれば足を運ぶのがささやかな幸せだった。雨の匂いを含んで、緑たちは濃密で艶やかだった。のびのびと茂る草木の中に、紫陽花が見事に咲いていた。
 縁日なんかで幼子が手にしている綿雨みたいに、ふんわりと広がるそのフォルムや、決して主張しない淡い色使い。口に含んでかみ締めたら、その青さが広がるであろう葉の緑。全てが僕を魅了した。僕はこの紫陽花という花が大好きで堪らなかった。そして、僕の日常の一部である店の名前が「おたくさ」ということに喜びを感じた。
おたくさとは、シーボルトが名付けた紫陽花の別名だ。彼が嘗て愛した長崎の遊女「お滝さん」から由来しているのだと母親が教えてくれた。僕はその、二人の儚い恋の逢瀬や、花に好きだった人の名を付けるシーボルトの慎ましさに愛着を持った。そして一層紫陽花のことが好きになった。
僕は時間を忘れて紫陽花を堪能した。顔を近づけて、匂いを嗅いで、少しでも紫陽花の一部を身体に入れることが出来ないか試したり、距離を置いて、緑と、紫陽花の花弁のコントラストを両目に焼き付けたりしていた。降りしきる雨が一層、紫陽花を際立たせた。からりと晴れ渡った空の下ではなくて、曇天の肌寒いうす空の下で何だか泣いているように咲く紫陽花が愛おしかった。
「お前、何時間もなにしてるんだ? 」
振り返ると、そこには少女が立っていた。陶器のように白く、透き通った肌、血管の浮くような細い腕や脚、半紙に墨を落としたような漆黒の髪の毛が胸元まで伸びている。
彼女は傘もささずにただそこに立っていた。全身雨水で濡れていて、唇が色を失って青白かった。僕は何故だか分からないが、少しも驚かなかった。生まれてからずっと、彼女に会うことが決まっていた気がした。心のどこかで、準備をしていたような、初めから全て運命的に繋がっていたような。それが今来た。そう思った。
「紫陽花を見ていたんだ」
 自分の声が妙に穏やかに響いて辺りに波紋するように広がった。
 「紫陽花なんか見てどうするんだ? 」
 「どうもしないよ。ただ、綺麗だなって思ってた」
 白い唇を薄く開いて少女は続けた。
 「花なんてどれも似たようなものだろう。どれだって咲いたらいつか枯れる」
 ああ、彼女は花を、命の脆さを憎んでいる。どう抗いようもなく訪れる死の悲しさに打ち震えている。
 「風邪をひくから僕の家へおいで」
 僕は今にも消えてなくなってしまいそうな彼女を自分の傘の中に入れて、家へ戻った。
 タオルで身体を拭き、僕の服に着替えた彼女は、昼の定食の余りを食べた。両親は買出しに行っていて、店には僕と彼女だけだった。
 彼女は店の残飯を、見ているこちらが照れてしまうほど美味しそうに食べた。何の変哲も無いしょうが焼き。それを口に含み、咀嚼するたび、目を見開いて、添えられたマヨネーズを付けて食べてまた頬を緩ませ、白米をかっ込んだ。
 「お前の母ちゃんは天才だな」
 このしょうが焼き定食を作った母が聞いたら倒れてしまうんじゃないかというくらい屈託なく言い放った。
これが僕ときよらの出会い。代わり映えの無い日常にふいに現れた彼女との短い物語の始まりだった。

 僕ときよらは学校では別々に行動していた。きよらは誰ともつるむことなく人を寄せ付けなかった。
 教室に入って、クラスメイトの誰かが彼女に挨拶をしても、つんと横を向いて自分の席に座った。開け放たれた窓からそよぐ風が、きよらの髪を梳いて、艶やかに輝いた。その姿があまりにも美しいので、無視をされたクラスメイトも何も言えないのだった。
 在る放課後、僕がウサギ小屋の掃除を終えると、校庭の隅から声が聞こえた。変声期を迎えたばかりの、少し低くて、でもまだ甘い、妙にいらっと、むずがゆくなるような声が三つ。僕は声のするほうへ目を向けた。
 そこには鉄棒を囲むようにクラスメイトの男子が三人と、その三人の視線を浴びているきよらがぽつんと立っていた。
 「お前サーカスの家の子供なんだろ? ほら、何かやってみろよ」
 三人の中で一番体格の良い少年が意地が悪そうに笑った。
 きよらはその日、赤い、膝丈ほどのスカートを履いていた。運動をするにはまったく向かない格好だ。
 悪童三人は、出来やしないと薄ら笑い、きよらが泣き出すのを今か今かと待っていた。
 きよらはうつろな瞳を三人に向け、まったく微動だにしなかった、静、の状態から、動、にスイッチを切り替えた。細くて白い両腕をぐわんと鉄棒に伸ばし、地面を蹴飛ばして逆上がりをした。
 くるりと、無駄な力をちっとも入れず、のびのびと回った。しなやかな身体の後に続いて、影を追うように髪の毛が舞った。
 きよらの美しさに圧巻された三人組は、その場に立ち竦み、誰も口を開こうとしなかった。きよらはそんな彼らを一瞥して、傍らに置いたランドセルを背負って去っていった。その小さな背中の勇ましさを、僕と男子生徒三人は一生忘れることは無いだろう。ウサギが小屋の隅で人参をかじっている。なんだか音がとても遠くで聞こえて僕は思わずまどろんでしまいそうになった。

 きょらはよく、僕の家のごはんを食べにくるようになった。僕は昔から、いつも何だか客の余り物を食べさせられているようで、母親の手料理が嫌いだった。
 きよらがとんでもなく美味しそうに手料理を食べるものだから、母親もすっかりきよらの虜になっていた。もともとそんなに友達が多くなかった僕を訪ねて家にやってくるきよらのことを両親は大切にした。おしゃべりな母親に対して、寡黙な父親は、きよらの頭をなでたり、自分から彼女に話しかけたりしなかった。でも、きよらが帰って少し寂しさのエキスが漂った店で、「あの子はいい子だな」と呟いたので、僕は驚きと喜びの気持ちでいっぱいになった。
 定食の余りや、母親の作る即興のまかないを幸せそうに食べ終わったきよらは、決まって僕の部屋へ行ってラジオの収録ごっこをしようとせがんだ。
 父親から譲ってもらったカセットデッキにテープを入れて録音をする。芸能人がするトーク番組のパーソナリティとゲストのように話をして、収録を終えると、出来立てほやほやの僕らのラジオを聞くのが一連の流れだった。
 そのラジオの中には「お悩み相談」なるものがあって、パーソナリティの僕とゲストのきよらが視聴者のお悩みを解決するコーナーがあった。お悩みの内容は、ラジオを始める前に、互いに事前に紙に書いてそのコーナーが始まる時に読みあった。初めの頃は、いかにもラジオに投稿してきそうなくだらない内容を書いた。好きな人がいるが告白できない、とかクラスで足が遅いと馬鹿にされるとか、本当に些細なもの。たまにきよらがふざけて宇宙の理について教えてください、などというダイナミックな質問を読み上げたが、それが余りにも非現実的すぎて逆に面白味を増した。だが、ラジオの回数を重ねていくうちに、きよらが自分の悩みを吐露することが増えてきた。きよらは今まで通り紙に書いて、それを読み上げるのだが、その悩みに含まれる闇の香りが僕の鼻腔から侵入し、脳みそに絡みついた。
 「ペンネーム、玉乗りピエロさん。兄弟が着替えている時、私の裸をこっそり眺めます。まじまじ凝視したり、無理やり触ろうとしてきたりはしませんが、何だか気分が悪いです。私の気にしすぎでしょうか? 」
 きよらがその悩みを口にしたとき、僕は鐘で衝かれたような感覚に襲われた。生まれて初めての怒りだった。きよらに兄弟はいない。つまりこれはサーカスの団員のことだ。彼らのきよらに向けられた生めかく、いやらしい視線を思うだけで、体中の血が沸騰してしまうような感覚に陥った。
 拳を握り締めて黙り込んだ僕を見つめたきよらは、カセットデッキの録音を止め、家に帰ると言った。
 僕はきよらを、彼女の住んでいる家まで送った。きよらたちサーカス団員は、公演地にトレーラーハウスを設けて、そこに住み着いている。キッチンも風呂も揃っているようで、そこらの家と遜色ない。巨大なテントの裏手に何台も設置してあるそれを見ると、ああきよらは遠くからやってきて、そしてまたすぐどこか行ってしまうのだと感じる。僕はきよらをハウスに届け、夜のテントを眺めた。巨大なテントは僕がちっぽけで何の権力も無い、無力な子供であることを主張した。檻でヒョウが丸くなっている。きよらもこのヒョウのように閉じ込められているのだ。でも僕にはどうすることも出来ない。その憤りが僕へ狂ったように襲い掛かる。ただ拳を握り締めることしか出来ない自分が悔しくて堪らなかった。

 梅雨が明けた。立ち込めていた鈍色の空も今は澄み渡ってよく冷えたサイダーのように爽やかだ。休日、きよらが僕の家へやってくるなり
 「四葉のクローバーを見つけるぞ」
 と言って無理やり僕を引っ張り電車に連れ込んだ。多摩川の河川敷までの切符を指先でつついたり、曲げたりしている僕を他所に、きよらは始終ご機嫌で、移り変わる車窓の景色に目を輝かせていた。土手でクローバーを探しまわるからと、きよらは膝たけのジーンズに半そでのTシャツといった出で立ちだった。ああ、そろそろ夏がやって来るんだ、と僕はどこか冷静で、頓珍漢なことを考えてしまった。
 河川敷の緑は青々としていて、僕は思わず寝転びたくなった。それを察したのか、きよらは、きっ、と目を吊り上げて今日の目的を再度口にした。
 「四葉のクローバーを見つけるんだからな。でも私より先に見つけるなよ」
 そんな無茶苦茶なことを言った。僕はきよらと二人だけで、自分の住んでいる町から抜け出すことができた喜びでいっぱいだったので、はいはい、と彼女を促してクローバー探しに赴いた。
 気持ちの良い風が僕たちを撫でた。ジョギングしている人の息遣いや、ダンボールを敷いて斜面を滑る少年たちの笑い声が心地よかった。そしてそれを僕のすぐ側で一緒に感じているきよらが愛おしかった。
 一面緑の絨毯の上で、一心に四葉のクローバーを探すきよら。とても透明で、ラムネのビンの中のビー玉のように冷たくて綺麗で、どこまでも果てしのない空のように澄み渡っている。手先についた土が彼女の肌の白さを際立たせ、黒曜石のような髪の毛をおもむろに耳にかける仕草が僕の胸を締め付けた。
 こんな透明な人間を僕は見たことがない。掴もうとすると、とたんに消えてしまうような、霧散してしまうような危うさを持つ。
 きよがふいに僕の顔を見つめた。
 「鼻の上に泥ついてんぞ」
 白い八重歯が淡い桃色の唇から覗いて、いつも大人びている彼女を幼く見せた。
 僕は四葉のクローバーなんて永遠に見つからなければいいのにと思った。
 トンボが飛んでいた。透明な羽が真っ直ぐ伸びて、大きな二つの目玉がころころとしている。
 「私には父親がいないんだ」
 いつの間にか太陽は一日の役割を果たし沈みかけていた。空一面がマーマレイド色に染まっている。きよらの歎美な横顔が夕日に照らされて、何だか泣いているように見えた。
 「母親は昔からサーカスが公演される先々で男を見つけるんだ。その度必ずセックスする。その時できた子供が私だ。母親も色んな男と寝てばかりでどいつの子供だったのかわからないみたいだ」
 きよらは空を見上げていた。その大きな瞳がオレンジ色に染まって宝石のように輝いた。
「父親は何も知らず、今ものうのうと生きているんだろうな。そのことで誰かを恨んだりはしない。でも、女も子供も無力だなって思うことばかりだ」
きよらは開いていた瞳を少しふせて、その長いまつげで頬に影をおとした。
 「生理ってもんがくると吐き気がしてくる。子孫を残さなくてはならないという宿命を勝手に背負わされて、否が応でも産まなきゃならないって脅されている気がする」
 「男子の前でそんなこと言うもんじゃないよ」
 僕が面食らったような顔をすると、きよらは小さく笑って続けた。
 「お前は男じゃないよ。男ってのはもっと荒々しくて欲望でぎらついた目をしている。それともお前も私の裸が見たいのか? 」
 きよらの澄んだ瞳が僕を捉え放さなかった。
「見たいよ。でもそれは美術館に飾ってある裸の女神様の銅像のような、秘境で何百年も姿を隠している湖のような、神秘的で謎めいたものを見たい、と思う心と同じなんだ。決して壊しても触れてもいけないって神様に言われているよう脆さがある」
 僕は正直に胸のうちを明かした。きよらは僕の発する言葉一音一音を吸収して、硬く一度目を閉じた。
 「康介、お前は私に何も聞かないな。でもそれは決して私に興味がないということじゃないことを私はちゃんと知っている。そしてそれが偽りじゃないことが今証明された。康介、私はお前が好きだよ」
 夕闇の中、力のない子供が二人。しかし何故だろう。僕ときよらの組み合わせは無敵なものに思えた。
 帰りの電車の中で、きよらは僕にもたれて眠った。この小さく強い光の塊を僕はどうしてあげることができるだろう。そんなことを考えて肩にのった甘い重みを感じながら、電車の揺れに身を任せた。早く大人になりたい。でも、今この時が永遠に続いて、時間が止まってしまえばいいのに。そんな相反する気持ちを胸に僕も静かにまぶたを閉じた。

 蝉の鳴き声が僕の鼓膜を揺らした。それまで僕は蝉の声を認知していなかった。聞こえてはいたのだが、どこか遠くおぼろげで、フィルターがかかったような感覚だった。
 学校は夏休みに入っていたし、プールにも何度も入った。綿の半そでシャツも着ているし、スイカも食べた。でも、心のどこかで僕は夏を否定していた。まざまざと季節が巡っているのを、時間が刻々と刻まれているのも気にしないようにしていた。だから、今日、僕は蝉のあの搾り出すような叫び声を認可したことに驚いた。生まれて初めて蝉の鳴き声を耳にしたような心地だった。
 きよらと出会って二ヶ月が経とうとしていた。サーカスは昨日最後の公演が終わり、撤去作業に取り掛かっていた、今朝、ラジオ体操の帰りにテントのあった場所へ行ったが、あの聳え立つようなバベルの塔は跡形もなく消え去っていた。
 家路へつくと、白いワンピースをまとい、麦藁帽子をかぶったきよらが店の軒先に立っていた。夏になってもちっとも焼けていない白い肌と漆のような光沢をはらんだ髪の毛。麦藁帽子の芳ばしそうなつばの先を両手で摘んでいる。頬と唇淡く染まっていた。
 「おい。またあの飯を食わせろ」
 僕は彼女の、この不器用な別れの言葉をしっかりと耳に刻んだ。
 僕は母親にしょうが焼き定食を作ってもらった。きよらは母親が厨房でたれを作ったり、キャベツを刻んだりしているのをじっと眺めていた。湯気の立つ料理を前にきよらは静かに手を合わせ、幸せそうに箸をつけた。きよらにつつかれる料理は幸せそうに光っていた。料理はもちろん、きよらの座る椅子もテーブルも、焼けた黄色いメニューの紙も、薄汚い店内のありとあらゆるものが輝いていた。それらが彼女に心から感謝しているのが分かった。
 きよらは最後の一口まで、本当に愛おしそうにして目を細め、完食した。
 食べ終わったきよらを連れて僕は紫陽花の咲いていた雑木林へ向かった。紫陽花は母親に綺麗に刈り取られて、うっそうとした夏の緑だけが広がっていた。きよらは僕に背を向けて、草木を見つめていた。肉厚な碧の豊満な匂いが立ち込めている。植物の世界に白いきよらが立っている。ふいにきよらが身体を半回転させた。ワンピースの裾がふわりと広がって柔らかな曲線を描いた。そして僕の右手をそっと手に取り、四葉のクローバーのしおりを添えた。
 多摩川の河川敷で、彼女はこの四つ葉のクローバーを探し当てたのだ。見つけたなんて一言もいっていなかったから、まったく知らなかった。僕に内緒で今日まで彼女はこのしおりに祈りを捧げていたのだろうと思うと胸が熱く、痛く、焦がれた。
 「ありがとう」
 僕は生まれて初めて心の底から感謝の言葉を述べた。たった五文字に僕の気持ちが全て乗るわけではないけれど、出来る限り全身全霊で、慈しみを込めて言った。
 僕たちはそのまま黙って歩いた。「いつかまたどこかで」「必ず会おう」「ずっと忘れないよ」そんな生易しい言葉で表すにはちっとも足りないほどの気持ちと、それを実現することが今の僕らには出来ない無力さを悟って黙って歩いた。
 きよらは団員の車が停まっている所までいくと、俯いていた顔を上げ、僕の顔を一度だけ見つめた。きよらの黒目の大きな眼に、星空のような輝きと、燃えるような熱い意思と、僕が映りこんでいた。
 きよらを乗せた車がエンジン音を立てて、一度ぶるんと震えて走り出した。僕は彼女を乗せた車を、ずっと見つめ続けた。どんなに小さくなっても、見えなくなっても、その場に立ち続け、じっと目を凝らした。まるで竹取物語のおじいさんやおばあさんが、月に帰っていく娘を見つめるように。ただじっと見つめ続けた。

 きよらのいない生活は僕を谷底へ貶めた。自分が不穏な塊に蝕まれていることに、なすすべなく従わなくてはならなかった。体が重たくて、胸が泥の底に沈んだみたいに苦しい。僕は怒っていた。サーカス団員たちのきよらを見つめる性的な目。母親のふしだらな性格。クラスメイトのきよらに対する態度。そして何よりそれをどうすることも出来ない自分自身への怒り。全てが怒り、悲しみ、後悔になって絶望した。
 新学期が始まり、僕の絶望はどんどん底を増していった。周りの皆がきよらのことなど初めからいなかったかのように、普遍的に過ごしていることが許せなかった。
 雨が降っていた。道行く人たちは、傘を手に、何かに急かされているように歩いている。僕は降りしきる雨粒に身を任せ、身体中を塗らした。完全に僕は闇の中にいた。きよらという光を失って僕は死んでしまった。もういっそ終わらせてしまおうか。そんな言葉が僕の脳裏によぎった。何もかも捨てて、食べたり、飲んだり、眠ったりすることも全部止めて、死んでしまおうか。もしくは狂ってしまったらどうだろうか。自分のこの感情を爆発させて暴力に明け暮れてはどうだろうか。そんなことを思った。その時だった。絶望のふちで、地面ばかり見ていた僕が、どうしてふいに顔を上げたのか分からない。でも、とにかく僕は空を見上げた。その瞬間目の前に虹がかかったのだ。美しいアーチ、七色の鮮やかな光、僕の心を照らす一本の虹の橋。
 僕は驚きのあまり、近くにいる人に伝えて感動を共有したかったが、周りを見渡しても、その虹に気が付いている者は誰もいなかった。犬の散歩をするおばさんも、バス停へむかう男性も、子供を乗せた自転車を漕ぐ親子も、誰ひとり。僕は分かった。これは僕のための虹だと。神様が僕のためにこの虹を見せてくださっているのだ。そう感じた。神様を確実に肌で感じた。「あなたらしく生きなさい」そう言われた気がした。
 僕の身体の中であれほど暴れまくっていた黒い塊が消え去った。本当にびっくりするくらいまっさらだった。僕は神様に恥じない生き方をしようと誓った。他人の目なんか関係ない。神様が見てくださっていることだけを意識して生きよう。そう決意した途端、心の中の闇が、怒りや憎しみや後悔が綺麗さっぱり消えうせた。僕は今、朗らかで幸福に満ちている。ああ、虹のなんと美しいことか。
 きっと神様を信じていない人は、例えばちょっとつまずいたりしただけで「ちくしょう」と毒づいたり、いかに今の自分が不幸かなんてことばかり考えてうつむいている。神様に見られているということを胸のどこかに抱いているだけでこんなに幸福に満ちるということを知らない。
 怒りというものは人を愚かにする。視界が狭まり頭がぐつぐつと煮えわたってめまいを起こす。目に映るすべてのものが恨めしく、憎らしく、腹立たしい。この負の感情がきっと戦争とか人殺しとか、そういった悲しいものを生み出すのだ。そしてその負の連鎖がまた新しい怒りを生む。
 神様に見てもらっていると感じるだけでこんなに心が穏やかになるなんて思わなかった。世界が光の粒で満ちて煌いて、全てのものが愛おしい。何を言われても、どんな汚い言葉を浴びせられても、理不尽なことを受けても、他の人から不幸だと思われようと構わない。僕は僕でありそれ以上でも以下でもない。それを神様は分かってらっしゃる。
 そこで僕は初めて理解した。きよらの生き様こそ神に仕えるもののそれだと。きよらはどんなに苦しいときでもそれを受け止め、きよらにしかできない生き方をした。きよらはその名の通り、きよらかだった。
 虹は、僕に真実を告げ終えると、やわやわ消えていった。その薄れていく静けさは、まるで僕の心のそのもので、僕は思わず感嘆のため息をもらした。
 重々しく降りしきっていた雨はいつの間にか止んでいて、人々は傘をたたんで、また何かに急かされながら歩いていた。僕だけが知っている、僕だけの虹。ついさっきまで、あんなに憎しみで満ちていた心が、今は、はちきれんばかりの多幸感で満ちている。濡れた服が、あれは夢ではないということを告げていた。僕は背筋をぴんと伸ばして前を見据えた。これから先の未来に向けて僕はゆっくり歩き出した。

 自分の部屋に帰ると、すっかり夜になっていた。神様の奇跡にあって、僕は恍惚感とほどよい疲れを感じていた。
 僕はベッドにどさっと倒れこんだ。夢と現実をさまようまどろみの中で、僕は本当に幸せだった。
 目を閉じると、沢山の紫陽花の中できよらが笑っていた。紫陽花が咲いてるから梅雨なのだろうけど、空はぱっかりと晴れて澄み渡っていてきよらの美しさを映えさせた。
 きっと十年経っても二十年経っても、紫陽花の咲く頃に必ずきよらを感じるだろう。どんなに離れていても、きよらの声がおぼろげになってしまったとしても、君という存在がこの世界にあり続けていることを僕は忘れない。
 夢の中の僕はきよらへ駆け寄っていく。右手には四葉のクローバーがあって、空は青くて、紫陽花が咲き乱れ、きよらがいる。神様の話をしよう。そしてそれをラジオに収録しよう。そんなことを考えている僕の心は弾み、そんな僕を見て、きよらも楽しそうに笑うのだった。

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