赤提灯と北風

曇天空の冬の下、男二人が居酒屋へ。
駆け込み駆け込み千鳥足。
駅の前だが深々と、人は疎らな亥の下刻。
暖簾の隅に煌々と、光るは“おでん”の赤提灯。
朧ろに光る朱色は、まるでほろ酔い上機嫌。
見ているだけで心の底に、しっとりじんわり火が灯る。

 二人の男は、店内に入ると、外套を脱いでカウンターに寛いだ。
仕事の上司と部下だろうか、二十ほど歳が離れているようで、
一人は恰幅が良く高貴な背広を纏い、脂の乗った指先を、おしぼりで拭っている。
 もう一人はと言うと、北風に吹かれて飛ばされてしまいそうな、枯れ木の如く。心もとない雰囲気を醸し、しかしながら利発そうな広い額と、涼やかな切れ長の目をしており、不器用ながらも上司の外套をハンガーに吊るしていた。

「今にも降り出しそうだね」
恰幅の良い上司が店主に投げかける。
「初雪かもしれないと、ニュースでやっておりましたからねえ。みなさん早めにお帰りになっているみたいで、ご覧の通り」
店内に自分達しか客がいないことを知った上司は
「まだ電車も走っているってのに、貸切じゃないか。大将には悪いが、なんだか特別待遇されてるみたいで嬉しいね。よし、今夜は他の人の分まで飲むとするか。まずは冷えた体を温めたい。熱燗をくれるかね」
そう言って二合の燗を頼み、隣に座する部下を指して店主に問う。
「ねえ大将。彼の名前、なんだと思うかね?」
細やかなる部下は眉尻を下げて、困ったような顔をした。
「へえ。そうですね。利発そうなお顔ですからねえ。凛太郎さんとか、賢治さんとか?」
懸命に思考を凝らして出した名前を、上司は面白そうに耳に響かせ
「惜しいねえ。いいところまでいっているよ。でもね、もっといい名なんだ。彼は“寒太郎”ってんだよ」
部下の寒太郎氏は、頭を指先で掻くような真似をして
「全くもって、寒いのが苦手な北風小僧でして…」
と自嘲した。
「そうでしたか。いや、でも良い名ですね。私はなんですっけ、あの。ビル風って言いましたか、ああいった風が嫌いでね。自然の風がたまらなく好きなんですよ。春一番とか、木枯らし第一号なんて、趣があるじゃないですか」
じっくりと温まった燗と、お通しの小鉢をカウンターに乗せながら、店主は言った。
「ビル風か。確かにあれは、何だかいやらしさを感じるな。四季なんざ関係ないし。しかし冬に吹かれると凍えちまう。それでいて普通の木枯らしなんかよりも冷酷というか、情緒がないね」
上司はビルの隙間を猛烈に突き抜ける風圧を思いながら、寒太郎氏に注がれた猪口で唇を濡らした。
「はは。なんだか木枯らしを良く言われると、自分が褒められているような心地がします」
まだ、一口しか酒を流していなかったが、寒太郎氏は顔一面を赤らめた。
「季節の移ろいが、都市化してどんどん消えちまってるもんだ。淋しいねえ。僕はさ、イルミネーションってのも、あんま得意じゃないんだ」
箸先をカチカチと上下しながら上司が語る。
「都市部で木々に電飾を巻きつけてさ、それをカップルや若い子が撮影しているだろ。でもさ、輝く電球を見て喜んじゃいるが、寒さを慈しんでいないんだよ」
「寒さを慈しむ、とは?」
店主が思わず口からこぼすと上司は寒太郎氏に注いでもらった酒をくいっと飲み干して続けた。
「例えば、この熱燗。これはさ、今にも雪が降り出しそうな今飲むから、すこぶる美味い。これが常夏じゃあ不味くて仕方ないだろう。それから炬燵。あれも、外で木々が寒さに震えているのを、炬燵にあたりながら『寒そうだなあ。それに比べてここはなんたる天国か』なんて思うから、より幸せに感じる。つまりな、寒さがあってこそ、楽しむことができて、寒さがなくては絶対に、良いって思えないものなんだよ」
「なるほどなるほど。確かにイルミネーションを撮りに来たご婦人方は、寒さを必死で我慢して、満足のいく写真が撮れたらば、早々に温かい場所へ移動していますね」
寒太郎氏は頷きながら述べた後、店主におでんを注文した。
「家の庭先に飾られたやつは好きなんだがね。この家に住まう娘さんが、寒い思いをしながら母親と一生懸命飾ったんじゃないか。きっと光を灯した時、彼女の心にも同じだけ、明かりが輝いたことだろう、なんて思えるからね。寒いのは辛いけどな、だけど全部無視しちゃいけないもんなんだよ。寄り添い合わなくっちゃいけないんだ。誰だかわかんねえ殿方に設置された電飾なんぞを、楽しんでいる気になったりして。自分は苦労をちいともせずに寒さを邪険にしていると、いつか自然からしっぺ返しされるに決まっているんだから」
大自然の力を語ると、上司は窓を眺め、まだ降ってないな、とこぼした。

「それにしても、何だかほんの一寸飲み足りない時、目の端にぼんやりと浮かぶ赤提灯の灯火を見つけた時ほど、胸に沁みる輝きはないやね。ありゃどんなイルミネーションなんかよりも美しく、火憐だ。まさに今、痛感するやい」
上司は猪口を顔に寄せ、提灯のように染め上げた己の顔を杯の中に映した。
 「私は、こんな名前ですから。冬のものに対する愛着というか、仲間意識みたいなものがなんとなくあるんですけれどね。雪ってものは、冬のものでも少々恐れを抱きます」
寒太郎氏が口をすぼめて吐息のように言った。
「なんだ、雪が怖いのか?」
上司が言葉尻を上げて彼に問う。
「ええ。ちょっとばかし。雪が降る時って、ものすごく静かでしょう。全ての音が、雪に吸い込まれてしまったような。知らぬ間に忍び寄ってきて、ハッとする時には、もう真後ろに立っているんです」
寒太郎氏が、心なしか震えて言う。
「なんだ。まるで幽霊みたいに言うもんだな」
上司が豪気に笑うと、寒太郎氏は震えをいなそうと体内に燗を流し込んだ。
「そう! そうなんですよ。色だって似ているでしょう。この世のものではない感じ。同じなんですよ。幽霊も、雪も。人には解き明かすことなんてできない。そう言った類のものです」
寒太郎氏は胸の中の靄を全て吐き出したのか、急に穏やかになり、丁度運ばれてきたおでんの湯気を顔中で浴びて、更にこわ張りを解していった。
「しっかし、学識とか、数式とか、データを重んじるお前さんが、そんな非科学的なもんに怯えるなんて、不思議だねえ」
上司が、面白そうに寒太郎氏を眺め、大根を半分に切って口に放り投げた。
「でも、こんなこと言っちゃあ、お兄さんを余計怖がらせちゃいますけどね。ほら、言うじゃないですか。幽霊とか。話しをしているとやってくるって。もしかしたら存外…」
店主が面白そうにつぶやく。
「もし本当にそんなことがあるのなら、私は今まで頼ってきた、学問や科学的な存在を心の底から信じて、武器にすることができなくなりそうだ…」
寒太郎氏は、酔いも相まって、もうほとんど泣きそうに言の葉を落とす。
 カウンターに突っ伏す部下の姿を見つめながら上司は
「珍しいね。お前さん、泣上戸じゃないだろう。最近忙しかったからな、疲れているんだろう。雪が降って積りでもしたら、嫌でも家から出られなくなるんだ。丁度いい。ゆっくり休むこった」
そう言って、こんにゃくを口に放り投げ、窓の外をちらり。
「参った…。本当に来ちまったよ…」
上司は、無骨な指先で頭を掻くと、ため息にも近い声音を空気中に霧散させた。
 ガラスの向こうで、綻ぶような白い粉がはらりはらりと揺れている。
冷めてしまったおでんのつゆを、箸先で揺らしながら、上司は悟る。
幽霊なのか、タヌキなのか。化かされているのかなんなのか。それともこれが自然の力なのか。だとしたら、本当に、人間なんて些細な生き物が適う存在じゃあねえなあ。
「しっぺ返しされる前に、帰るとしようか」
隣で伸びている寒太郎氏を送る方法を考えながら、まだ自分しか気がついていない雪の存在を胸に、上司は熱燗をひとすくい喉に流し込んだ。

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