見出し画像

これは会話じゃない。

どういう人が好き?


この質問困るよな。

え、困んない?


僕が困るのは、別にどう答えたとしても僕のプライドに障らないからだ。正直、なんて答えてもいい。

別に「宇宙人」って答えたっていい。その会話を僕と質問者が面白いと思えるなら。僕はつまんないと思うから言わないけど。


僕にとって会話の目的は自己表現じゃない。僕らしさを出すこととか、僕の本心を正直に見せることとかはどうでもいい。

会話は、僕と相手が共通の何かを共有するためのものだと思っている。

例えば隣の席の人と会話をする時、僕と隣の人は時間と空間、そして話題を共有する。話題は感情を呼び、その感情がうまく会話によって共有されれば、円満な会話と言えると思う。もし「楽しい」という感情がうまく共有されれば、同じく共有されている時間や空間に「楽しい」が満ちて「楽しい時間」や「楽しい空間」が生まれる。会話というのは、そのための手段だと思っている。

事務的な会話でさえ時間や空間を共有し、とある情報を共有する。円満な事務的な会話とは「情報の共有」がなされる会話のことだ。

人間は元々動物だから、時間と空間を共有するコミュニケーションしか持たなかったけど、手紙や電話、インターネットのような時間や空間を共有しないコミュニケーション手段が生まれた。だからこそ、会話における「時間や空間の共有」の重要性、ユニークさは増していると思う。


話をまとめよう。

僕は、会話とは相手と何かを共有するための行為だと思っている。

特に時間を共有する行為だと思っている。


もっと噛み砕いて言うと、

「お互い気持ちのいい時間を過ごそうや」

ってことだ。


だから、僕が会話において自己表現を最優先にすることはほとんどない。自分の言いたいことのうちで相手が求めていそうなことを選んで話す。たまに自己表現を最優先にすることもあるけど、それは自分を守るためで、そこでは会話というよりむしろ戦争が起きている。譲れないところは譲らない。

さて、「お互い気持ちのいい時間を過ごす」ということを第一の指針にして考えると最初の質問への答えが見えてくる。


どういう人が好き?


まず、戦争が起きていないことを確認する。別に譲れないところはない。「大和撫子」と答えないと気が済まない日本男児がいたら話は違うけど、この程度の話題ならどうとでも答えられた方が人生は楽だと思う。

僕はこういう時、「相手がどういう意図で質問してきているのか」を考えてしまう。飲み会で仲のいい男友達に聞かれたのならおそらく「面白い話で盛り上がりたい」という意図だろうから「騎乗位が上手い子」とでも答えておけばいい。相手が仲のいい男友達でも、静かに話している時なら「僕の内面を知りたい」という意図があるんだろうから「笑顔が可愛くてご飯を美味しそうに食べる人」とでも答えておけばいい。あとポニテな。

あんまり仲のよくない女子に聞かれた時みたいな、「ただ場を繋ぐための会話」なら適当に相手の特徴を言っておいてもいい。婚活パーティー的な場なら、どうなんだろうな。やったことないからわかんねーや。

「どんな方が好きなんですか?」
「こんな天気でも折り畳み傘持ってる人ですかね」
「なんですかそれ」
「なんかしっかりしてそうじゃないですか、ちなみに持ってます?」
「持ってないですね」
「まあ僕も持ってないんですけど」
「ですよね」
「僕そもそも折り畳み傘自体を持ってなくて、そうだ、この後一緒に買いに行きませんか」

よし、完璧だな。(?)


まあとにかく、相手がどういう意図で話してるかによって、同じ言葉でも返答が変わるってことだ。字面だけ見て話すことはしない。

結局言葉はコミュニケーションの手段であってコミュニケーションそのものではないのだ。

と、思う。

言葉を聞いて僕の心は動くから「言葉が心を動かした」と感じてしまいそうになるけど、本当は言葉の奥にいる人間が、その人間の思いが僕の心を動かしたのだと思う。あくまで動物的な生命と生命のやりとりであって、暗号と自分のやり取りではない。

言葉は身体的なコミュニケーションの一つだと思っているから、表情やしぐさとも並び立つものだと思っている。言葉を交わすだけじゃなくて、目線を交わすことや近くにいること、そういうことを含めて会話だと思う。それこそが、「時間と空間を共有すること」だと思う。

どうせ一年後には何話したかなんて覚えてないんだ。ただ一緒に過ごした時間とそこで見た光景だけが記憶に残る。

何話したっていいんだ。

結局残るのは時間を一緒に過ごしたっていう思い出だけなんだから。





さて、僕の会話に対するスタンスが伝わっただろうか。

長々書いたけど、こういう考えのベースは浪人時代のメモ帳に既に言語化されていた。

コミュニケーション

同じ土台を共有するから初めて成り立つ
前提として、同じ場所に同じものを見て、立っている位置が同じだから、同じものを見てコミュニケーションが取れる
見え方違う時、「あ、立ってる位置が違うんだ」
本質はものを見るではなく、相手を見る
あくまでも媒介物

それがインターネットだと、同じ土台に立ってない、相手が見えない
形式上のコミュニケーション、形だけ
コミュニケーションのような何か

2021/4/22


僕はたまたまnote書いてるだけで、note書いてなくてもこんなこと考えてる人種なんだな。

まさに「コミュニケーションのような何か」であるこのnoteから僕の伝えたいことが真に伝わるんだろうか。僕は何のために書いているのだろうか。

なーんて。

僕は空中に言葉を放るだけ。

どう解釈されてもいい。

これはコミュニケーションのつもりもない。

もし僕の記事を読んで僕の全てを知った気になってる人がいたら言ってやりたい。


こんな文章の寄せ集めの中から僕を捕まえてみな。

できるもんならな。


それでは。


いいなと思ったら応援しよう!