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『小説ですわよ』第7話

※↑の続きです。

 翌朝。バイトは休みだが、10:30に事務所でイチコと会う約束をしている。
 舞は顔を洗い、歯を磨き、台所に向かう。冷蔵庫の静かな重低音だけが響き渡る。母も妹も、今の時間は仕事中だろう。
 コンロには味噌汁の残った鍋が置いてある。冬の時期、母は夕食に汁ものを多めに作り、その余りを舞のために取っておいてくれていた。
 当然これが理由というわけではないが、舞は過保護すぎる母を恨むに恨めなかった。父の件で最も苦労したのは母だと知っている。犯罪者の妻ということで、補助教員の仕事を失い(クビにされたというより、どこの学校でも需要がないという体裁でフェードアウトした)、どこのパートにも採用してもらえなかった。十年ほど前、ようやく人のいい老夫婦が経営するクリーニング店で雇ってもらって今も仕事に汗を流している。
 そんな中、大学まで通わせてもらい、仕事をクビになって発生した諸々の金を肩代わりしてもらい、実家に寄生させてもらっている。生活費などを家に入れているとはいえ、食事も洗濯も風呂も母に頼りっぱなしだ。
 子供のままではいられない。舞にだってそれはわかっている。だから今は母にお金を返す――そのためにバイトを始めたはずだったが、いつのまにか返送者を轢く快感が目的にすり替わっていた。もしかしたらイチコが舞をビンタし、今日話したいことがあるというのは、そういう意味なのだろうか。

 などと考えていても始まらない。ガスの元栓が閉まっていたので戻し(使ったら元栓を必ず閉めろとは母と交わした血の契約である)、火をつけて味噌汁を温める。舞は小学生のころに天ぷらを作ろうとして、なにをどう間違ったか火事寸前の事故を起こしたので、揚げ物は絶対禁止とされていたが、コンロを使う分には問題なかった。
 炊飯器を開けると、茶碗1杯分ほどの白米が残っていたので鍋にぶちこむ。冷蔵庫にはパックの柴漬けと卵があり。それも適当に放りこむ。調味料の棚から塩と味の素を取り、それぞれ2~3振りほど雑にかけた。
 汁が煮えるのを待つあいだ、リビングにあるテレビをつける。ちょうどニュース番組から情報バラエティに切り替わる時間帯で、お笑い芸人がなにやらワチャワチャ盛り上がっていた。
 数分経つと、味噌汁を含んだ白米がボコボコと泡を立てる。卵の白身には火が入り切っておらず透明なので、お玉でかき混ぜると、すぐに白濁した。“ちょっぴり豪華なネコまんま♪~ポーチドエッグもどきを添えて~”の完成である。舞の祖父母は犬を飼っていて、夜中になるとその日の残ったおかずを味噌汁にぶちこみ、犬に与えていた。なので世間はともかく、これは舞にとって犬まんまである。ちなみに犬まんまが余りに美味しそうだったので、こっそり横取りしたことがあったのだが、見事に犬から嫌われた。
 ガスの元栓を再び閉めてから、大きめのどんぶりに犬まんまを入れて、冷ますことなく半ば飲むように喉へ流しこむ。焼けるような、わずかな痛みが食道を通って胃の中へと流れていくのがわかる。この熱さを感じることが冬に生を実感することだと舞は信じていた。これを感じなければ冬の朝は始まらないとさえ思っている。
 そうして、ひと口ふた口と食べてから、ぷっくり膨らんだ卵の黄身を割る。黄色の粘体が白米にドロリと絡んでいき、これを頬張る。味噌の旨味を塩と味の素が引き立て、それを卵の黄身がマイルドに包む。最高の調和だ。これを全人類が食せば、戦争など起きようはずもない。なぜならば他者を尊ぶ精神がなければ、この美味しさにはたどり着けないからだ。舞は大学で隣の席に座った生徒に、この持論を展開したが、無視された。その上、教授にも叱られ、その日の出席をなかったことにされかかった。だが「わかるヤツだけわかればいい」という精神で、舞は犬まんまを豪快にかきこんでいく。
 そうして、どんぶりから米粒一つ残さず食材が消えた。ふぅと息を吐くと、体内の熱も同時に吐き出される。身体の芯まで温まった証拠だ。その熱を与えてくれた感謝をこめて合掌し、箸を置いて心の中で「ごちそうさまでした」と唱える。

 この幸福感のまま、食器を洗えればいいのだが、そうはいかない。冬の水は、まず心を凍らせる。舞はダラダラと頬杖をつき、情報バラエティを眺めた。司会の男はいい声をしているし、頭の回転も速い。重宝されるのだろう。しかしコンビを組んでいた相方はどこへ行ったのか。中学生のときホームレスだったとかで本を出し、その印税で幸せに暮らしてるのだろうか。

 気がつくとテレビに内蔵された時計が10時を回ろうとしている。まずい。まだ着替えもメイクもしていない。もちろん洗い物も。給湯システムを起動させ、お湯が流れるのを確認してから、食器一式をガシガシ洗った。
 少なくとも”ぬめり”は取れたので、シンク横の食器を乾かす棚に使ったものを並べ、一度自室に戻って服を選ぶ……面倒なのでピンクのジャージにした。
 メイクは仲里依紗のYouTubeチャンネルを参考にしたかったが、紹介されている化粧品に手を出す金銭的余裕がなかったので、引き続き宇生 月うそう るなチャンネルの時短メイクで行くことにした。

 時刻は10:15。猶予はある。舞はユニクロの隅っこで売られていたポーチバックを肩に引っ提げ、玄関の扉の鍵をしっかり閉めて(何度もドアノブを引っ張って)南裏筋駅へと向かった。そこで、ふと気づいた。
「あ、ウンコしてねえ!」
 改札をくぐった先のトイレで済まそう。5分で終えればプラマイゼロだ。自分なりに一生懸命生きてるが、生命活動はプラスにはならない。舞は舌打ちしてエレベーターの1階ボタンを連打した。心の中で「クソッタレ」と神とも仏ともわからぬ誰かに呟いた。

 舞は脱糞危機を乗り越え、事務所に着く。イチコが階段に腰掛け、なにかしらのパンを頬張っていた。その足元や階段の手すりには、食べこぼしが目当てであろうハトやスズメが群がり、なんとイチコの頭には1羽のカラスが乗っている。
 鳥たちは舞を察知すると、一目散に飛び去って行った。
「おはよ……もぐ……水原さ……もごご」
 イチコは手すりに置いた紙パックの牛乳を飲み干し、食べかすだらけの口を袖で拭ってから、改めて舞に「おはよう」と言った。舞も同様に返す。
「さっき起きたばっかりで、朝ごはん食べてた。やっぱり牛乳とアンパンのコンビは最高だね。定番は優れているから定番なんだなあ」
「ははは、わかります」
「あっ、違うよ。アンパンといってもクスリの隠語じゃないからね!」
 イチコが慌ててアンパンと書かれた包装ビニールを突き出してきたので、舞は噴き出してしまった。
「あれ、でもアンパンの表面についてる粒々ってケシの実じゃなかったでしたっけ」
「そうなんだ? じゃあ、粒々をいっぱい集めたら売人になれるね」
「まあ加工されてるでしょうから、気持ちよくはなれないんじゃないでしょうか」
「ちぇ~っ」
「本気で売人になろうとしてました?」
「ハハーッ! 冗談だって」

 イチコは「そうだ」とスウェットパンツのポケットをまさぐり、左右のフレームが〇と□のメガネを差し出す。
「水原さん用のができたよ。どうぞ。頭がよくなるよ~」
「やった、ありがとうございます」
 早速かけてみる。本当に頭が良くなるのかというドキドキとワクワクはすぐになくなった。
「イ、イチコさん、ぼんやりピンクに光ってるんですけど」
「うん」
「故障じゃないんですよね?」
「……うん」
 イチコは照れくさそうに頭をかいた。確か、ピンクに光って見えるのは返送者だったはずだ。ということは……
「話したいのは、それなんだ。聞いてくれる?」
「もちろんです」
 驚きも拒絶もなかった。イチコならば別に返送者だったところで何ら不思議ではない。むしろ舞が懸念しているのは、イチコという人間について踏みこんでしまうことだった。相手を深く知れば、好きになるにせよ嫌いになるにせよ“道ですれ違う人”と思えなくなる。それがイヤだったが、ここまで来て帰るのも明日からの仕事が気まずくなると考え、階段を昇るイチコについていく。

 イチコは2階を通り抜け、そのまま3階へ続くステップへと足を乗せる。
「あれ? 軍団さんが寝てるんじゃ?」
「みんな出かけてるよ。宝屋から手に入れたスマホを調べてるのかも。いや、それは姐さんの仕事か。今日は草野球の練習をしてるはず」
「へぇ、草野球」
「暇さえあれば、一日中練習してるよ」
「結構強くってさ。先月なんか社会人チームと練習試合して、コールド勝ちしちゃったよ」
 イエローはキャッチャーが似合いそうだが、ブルーはどうだろうか。野球が得意そうに見えないし、ルールやスポーツマンシップを理解しているかすら怪しいが、意外に上手いんだろうか。

 3階に着き、イチコがドアを開けると、少し埃っぽい匂いが漂ってくる。中は暗く、ブラインドの隙間から差しこむ明かりだけが光源となっていた。手前側、約10帖ほどに渡って2段ベッドが5個並び、間をカーテンで区切られている。
「私と軍団はここで寝泊まりしてるんだ」
「イチコさんも? その、軍団さんを悪く言うつもりはないんですけど……風紀的に大丈夫なんですか?」
「問題が起きたことはないなあ。イエローのイビキがうるさいくらい」
 普通ではない集団だ、凡人が思いつくトラブルとは無縁なのだろう。イチコはそのまま奥へと進んでいく。テレビにゲーム機、ソファー、漫画だらけの本、小さな冷蔵庫、床には散乱したビール缶……娯楽スペースのようだ。雰囲気はまるで違うが、間取りは2階とほぼ同じでキッチンやトイレもある。2階の社長室に位置する部屋は、武器庫とプレートが張ってあった。

 舞はイチコにうながされ、ソファに腰をおろす。
「それで話っていうのはね……」
 イチコは正方形のテーブルを上からグッと押した。するとテーブルの天板がぐるりと裏返り、中央に半球のくぼみがある面に代わる。そしてイチコが親指と中指をこすり合わせて音を立てると、青黒い球体の立体映像が現れる。球体の中には大小さまざまの光輝く点が無数に浮かんでいる。舞には宇宙空間とそこに浮かぶ星々のように見えた。
「なんかプラネタリウムみたいですね」
「まあ、似たようなものかな。違うのは、光っているのが星じゃなくて異世界だってこと」
「このひとつひとつが、異世界……」
 異世界と呼ばれる場所がひとつではないのは理解していたが、数万、数億……いや、それ以上の数とは想像もしていなかった。
「映画や漫画なんかで、多元宇宙やマルチバースって言葉を聞いたことないかな? 姐さんは“マルチアヌス”って呼んでる」
「アヌ……? って、お尻のアレ?」
「うん、アレ。この立体映像は、それらを映した地図なんだ」
「なんで世界がケツ穴なんですか……」
「まずは、これを見て」
 イチコが立体映像の表面を指先で軽くつついた。無数の異世界から次々に光る糸のようなものが伸びていき、球体の頂上の一点ですべての糸が集約される。
「天国にも地獄にも行かず、異世界へ転生する者たちは、この集約点から“神々の腸”を通じ、それぞれの異世界にある“マルチアヌス”という門から、その世界へ排泄される」
「さしずめ、転生した人間は神のケツ穴からひり出たクソってところですか」
「よくわかったなあ!? その通り、姐さんはこの転生の仕組みと返送者をすごく蔑んでる」
「あの人、ちょくちょく下品っていうか攻撃的ですよね」
「でもすごい人だよ。この立体映像を作ったのは姐さんなんだ。返送者が、どのアヌスに送られたかわかるようになってる」
 イチコが立体映像の表面で、スマホの画面を拡大するようにピンチ操作をすると、粒のようだった異世界のひとつがサッカーボールほどに大きくなった。その異世界には“アヌス893069”という文字が表示されている。
「それぞれのアヌスには番号が割り振られてる。ちなみに893069は大瓦が返送された世界。今なにしてるかな~」
「わかるんですか?」
「映像だけで、音は聞こえないけど」

 イチコがピンチ操作で、さらに異世界を拡大する。
「おっ、いたいた」
 暗雲が立ち込める中、古城らしき場所で、大瓦が翼の生えた悪魔のような巨大生物と対峙している。大瓦は全身から血を流していた。だがその目は生きており、勢いよく手をかざす。そして「ウナル」と唱えたのであろう。件の魔法ウナギが現れ、悪魔の尻にぬるりと入りこむ。悪魔の身体が膨れ上がったかと思うと、すぐさま爆裂。肉片と紫の血が辺り一帯に散乱した。
「うへぇ……」
「ハハッ、元気そうでなにより!」
 イチコが映像をダブルタップすると、異世界は元の粒に戻る。
「と、こんな感じで、返送者たちの動向を知ることもできるんだ」
「すごいなあ。スマホの位置情報みたいなシステムなんですね」
「ハイエースにあった魔法陣を覚えてる?」
「ライトで照らさないと見えないやつでしたっけ」
「あれは烙印といってね。スタンプみたく返送者に押しつけると、異世界へ送り返して、その動向を知ることができるんだ。でも条件があって、一定の強さで押しつけないと烙印は効力を発揮しないんだよ」
「だからハイエースみたいな大きい車で、返送者を轢く必要があったんですね。色々とスッキリしました」
「それで本題なんだけど……」
 イチコが舞に向き直る。舞のメガネ越しに映る姿は、やはりピンク色の淡い光を放っていた。

「最初に目的を話しておくよ。私は元の世界に帰る手段を探してる」
「えっ、ハイエースで轢かれたらいいんじゃ……」
「ハハッ、やってみたけど全身を複雑骨折しただけだったよ。なぜか私には烙印が効かないんだ。だから別の方法で異世界へ転移できる能力を持った返送者を探してる」
「探偵社で働いているのは、そのためだったり……?」
「そんなところ。姐さんには恩義もあるし。こっちの世界に来て、右も左もわからない私を助けてくれたから」
 舞は掘り下げるべきではないと思いながらも、疑問を我慢できなかった。
「あの……こっちの世界に、ご家族やご友人は……」
「いない、と思う。多分ね、うん。探しては、みたんだ……けど」
 歯切れが悪い。触れるべきではなかったか。しかしイチコが口ごもる理由は舞の想像とは違っていた。
「記憶がないんだ」
「えっ……」
「元々この世界でどういう暮らしをしてたのか、どんな異世界へ転生して、どんな能力を得て、なにをしたのか。もちろん送り返された理由も。なにひとつ覚えていない」
「名前は? 森原イチコさんという人の行方不明者届けや死亡届けが、どこかの役所にあるかもしれないでしょ?」
「調べてみたけど、何も見つからなかった。小原のときに使った例の棒あったよね? 私がこの世界に戻ってきたとき、あれを握ってた。棒には名前が書かれたシールが貼ってあって、そこに書いてあったのが森原イチコ。おそらくだけど別の人の名前なんだと思う」
「そうだったんですか……」
「空っぽな人間に思えてきた? あるいは透明かな」
「いえ、そんな。だってこんなキャラの濃い人間が空っぽだなんて!」
 舞は余計なことを口走ったかと唇を結んだが、イチコは微笑んだ。
「でも、ひとつだけ確かなことがある。記憶がなくとも、この心に残った想い……」
 イチコは鼻から息を吸い、ゆっくり吐き出す。

「私はこの世界から一日も早く消えたい」

 感情の動きひとつなく吐き出される虚無の言葉。ウラシマ街で舞をビンタしたときと同じだ。
 舞は返答の選択肢がいくつかあった。「そうなんですか……」「イチコさん……」「そんな……」。この3つは便利だ。気の利いたことを考えなくてよく、深刻な話をとりあえず受け止めたように見える。あるいは、ため息をついて無言。“道ですれ違う人”に対してならば、こんなもんでいい。イチコに対してもこれで充分なはずだ。しかし梅干しの硬い殻に眠る胚のような、舞の無意識は違う言葉を紡がせる。

「あっ! すごくわかります、それ!!」

 溌溂とした声が、静寂を破った。同志を見つけた犬のような喜びに満ちた顔で言ったであろうと、舞は自分でもよくわかった。愛想笑いをするときの、ぎこちない突っ張りを表情筋から感じない。嘘をつくときに起こる涙袋の痙攣もない。自然と内にある感情に従い、笑顔が出た。歯を見せて笑ったのは何年振りだろうか。
 イチコの切れ長の目が丸くなる。口は小さくぽっかりと円を作っていた。舞は探偵社に入ってから最大の“余計なこと”をやらかしたと悔やんだ。冬の乾いた空気が、舞の唇と前歯を乾かせる。部屋の埃がブラインドの隙間から差しこむ光に照らされ、あてもなく宙をさまよう。相撲の精霊が語り掛けてくるときの、時間が無限に引き延ばされる感覚が押し寄せてきた。

 舞が取り繕う言葉を考えていると、イチコがぽっかり固まっていた口を動かす。
「よかった。水原さんなら、わかってくれると思ってたよ」
 両眉を下げて、どこか悲しげな微笑みを作る。舞にとって想定外の反応だった。
「『記憶がないくらいで、消えたいとか甘えてんじゃねえ』なんて怒られないか、ちょっと不安だったけどね」
 ここまで来たら、もはや安易な相槌はイチコを傷つけるだけだ。舞は心の“梅干しの殻”を破ることした。
「きっと誰でも、理由は違えど消えたいと思ったことあるんじゃないですか」
「そうなんだ。明日どうすればいいのかわからなくなって深夜徘徊したくなること、他の人もあるのかな?」
「あります」
「ボーっとしてたら、胸がソワソワして身体が浮くような感触とか。あとは夜更かしして朝になったときの、意味もわからない絶望感とか」
「あります、あります」
「そっかあ。話して、よかったなあ……」
 イチコはしみじみと、遠くを見るような目でマルチアヌスの立体映像の表面を撫でた。
 舞も安堵した。目の前にいる人間は、自分より遥に優れ、恵まれた人間なのだと思っていた。比べると惨めな気分になる存在であると。だが本質は同じだった。返送者で記憶がないという辛さは想像もできないほど巨大なのだろう。それに対して舞は同情できないし、すべきではない。だが“殻に眠る胚”は同じだ。大きさは違えど、ふたりの図形は相似なのだ。別にそれで何かが変わるわけではないが、羽毛布団にくるまれたような安心を得られた。

 しかし、イチコは真剣な表情に戻る。
「でもね、水原さんには私と同じ道を歩んでほしくないんだ」
 舞はいきなり布団をはがされ、寒気がぶり返す。
「私が返送者じゃないからですか」
「それもある」
「私だって、この世界に居場所なんてないですよ」
「だからといって『消えたい』『消えていい』なんて思ったら……」
 イチコは唇をきゅっと噛む。
「ただ毎日、鈍い重みを腹の底に抱えていくだけだ。消えるのが怖くて。本当は消えたいのに。矛盾がせめぎあって、結局なにも動けなくなる」
 舞にはイチコの気持ちがよくわかった。人生どうでもいいなんて思いながら、理性がそれを引き留めてくるのだ。『生きてさえいればどうにかなる』などという甘い希望は、あてのない歩みを意味もなく止め、結局何者にもなれないまま時間だけが過ぎていく。
「それなら、私はどうすれば……」
「ごめん。急に言われたって、わからないよね。とりあえず、お昼ご飯がてらドライブでもしない?」
 イチコは立ち上がって笑顔を作る。それが心からのものでないことは、引きつった眉を見ればわかった。舞はイチコもこんな表情を作るのかと親近感を覚えた。しかし心をくるむ毛布は冷たいままだ。
「餃子、食べたいです」
「行こう。いい店、知ってる。おごるよ」
 今の舞は餡だ。優しく包んでくれる衣がほしかった。

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  しばらくの間、餃子のご提供は中止させていたきます。
  バカなアルバイトが餃子の皮で男性器を包み、
 「これが本当の広東包茎だ」と遊んでいたことが発覚し、
  衛生管理体制の見直しを行っております。
  ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。
  一日も早く、お客様に再び安心して餃子を召し上がっていただけるよう
  誠心誠意、努力してまいります。

  ちなみにバカバイトは3名おり、うち2名は餃子の餡となりましたが、
  1名が逃亡中です。
  見かけましたら警察ではなく本店へご一報ください。
  よろしくお願いいたします。
(中華料理屋『珍棒』の張り紙より。バカバイトの写真は省略)
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 諸事情で餃子にはありつけなかったが、近くにうまい立ち食い蕎麦屋があるというのでやってきた。大摩羅駅のビジネス街からやや離れた場所にある店で、年季の入った出で立ちだ。
「さっと立ち寄れる駅中のキレイなチェーン店もいいけど、こういう汚い店が実は一番うまいんだよ」
 店の隣にある駐車場にハイエースを停め、イチコが言った。舞は不安で仕方ない。前職の上司も同じことを言い、舞をボロ蕎麦屋に連れて行ったのだが、麺はぼそぼそ、ツユは風味もクソもなく味すらしないゲロマズ五つ星だったからだ。おまけに舞が味に顔をしかめていると、店のオヤジが包丁を投げつけてくる始末だった。

 舞はイチコに続いて、色あせた藍色の暖簾をくぐる。
「いらっしゃい」
「うーっす」
「ああ、イチコさん。お久しぶりです」
 舞は、道場六三郎を三白眼にしたような割烹着のオヤジと目が合った。睨まれてるような気がしたが、丁寧に会釈されたので違うのだろう(と信じたい)。小上がりの席にあぐらをかき、テーブルを挟んでイチコと向き合う。ふたりで首を曲げ、お品書きを覗きこんだ。
「おすすめってあります?」
「あったかい肉蕎麦と、半カレー。めちゃうまだよ。10年くらい通ってるけど、ほとんどこれしか食べたことない」
 ずらりと並ぶ品目に目移りしたが、蕎麦とカレーは鉄板なので舞もそれを選んだ。
「オッチャン、いつもの2つちょうだい!」
「あいよ」
 厨房から渋い低音の声が返ってくる。
「イチコさんって、ほんとカレーが好きですね」
「好きかどうかはわからないなあ」
「違うんですか?」
「覚えてる限り、初めて食べた料理がカレーなんだよ。気がつくとこの世界に立っていて、あ、裏筋駅の近くでね。メチャクチャお腹がすいてて、近くからいい匂いがしたから釣られて入ったのがカレー屋さんだったんだ。食べたら不安な気持ちがやわらいだのを、今でもよく覚えてる。でもお金持ってなくってさ」
「まさか食い逃げ!?」
「そうなりそうなところに、たまたま姐さんがいて、お金を立て替えてくれたんだよ。それが初めての出会い」
「へぇ。あの人もカレー好きなんですかね」
「甘口に、牛カツとチーズとほうれん草とウインナーをトッピングするのが大好きなんだって。あとパリパリチキンか。でも誰かに甘口が好きなのをバカにされてから、辛口派を憎んでるんだって。依頼主が辛党で姐さんにマウントとってきたときなんか、包丁を突き立ててやったらしい」
「俗物だなあ」
「でしょ?」
 イチコが肩を揺らしながらケタケタ笑った。こうして見ると消滅願望を抱えている人間とは思えない。

 そんなことを話しているうちに、肉蕎麦と半カレーのセットが運ばれてきた。見た目はなんてことない普通だ。強いて言うなら、カレーは黄色で今時珍しい“THE蕎麦屋のカレー”であることくらいか。
「いただきます」
「いただきます」
 案の定、イチコは真っ先にカレーをかっこむ。舞は蕎麦屋なんだからと肉蕎麦を最初のひと口に選ぶ。
(おいしい……!)
 コシのある蕎麦に絡まり、カツオ節の効いたツユが流れこんでくる。醤油がやや強い気もしたが、麺を噛んでいると、一拍遅れて赤身と脂身のバランスがとれた肉の旨味と甘味があふれてきて、味わいをまろやかにしてくれた。口の中で混然一体となる幸せを、さらに求めて、ひと口ふた口と箸が進む。
 イチコを見ると、すでにカレーを8割ほどたいらげ、肉蕎麦のツユで口直しをしていた。ぷは~っと風呂上りにオッサンがビールを飲むかのごとく、幸せそうに目を細めるイチコ。舞はそういう風にも楽しめるのかと、スプーンでカレーをすくい、咀嚼する。
(和風出汁が効いてるけど、これは!?)
 THE蕎麦屋のカレーの見た目に反して、味はインドカレーがベースにあった。ピリピリパチパチツクツクと様々なスパイスが口内ではしゃいでいる。かといって後に引くようなイヤな辛さはまったくない。スプーンですくう手が自然と早まる。リズムをとるため、イチコにならって蕎麦ツユを流しこむと、甘味とカツオ節が口の中をフラットにしてくれた。インド旅行から日本に帰ってきたような魂の安らぎを感じる(海外旅行の経験は皆無である)。さりとてスパイスの辛さと蕎麦の温かさは、確実に舞の体温を上昇させており、いつのまにか運ばれていた水へ手が伸びる。
「はふぅ……」
 汗が引き、体内がリセットされた。しかし脳裏には多幸感が刻まれており、すぐに手が肉蕎麦とカレーへと伸びる。それを幾度繰り返したであろうか。名残惜しさを感じさせながら、舞は食事を終えた。イチコがまとめて会計を済ませて、藍色の暖簾をくぐる。また来たいなと思って振り返ると、オヤジが不器用にウインクしてきた。これは常連にならざるを得ない。
「イチコさん、ごちそうさまです」
「いやいや。満足してもらえたならよかったよ。また来ようね」
「はい!」

 ハイエースは大摩羅駅から裏筋駅方面へと戻る。イチコの運転はうまい。ブレーキや発進で車体がガクついたり、曲がるときに身体が横に流されることもない。一切のストレスを感じないから、今まで気づかなかった。だが意識した途端、気持ちよくなって瞼が重くなる。
「事務所まで10分ちょいだけど、寝てていいからね」
「はい……」
 言うが早いか、舞はまどろみの中に落ちていった。が、それからすぐなのか、しばらくなのかわからないが、スピーカー越しの声に目を開ける。ハイエースは赤信号で停車中だった。
「ちんたま市を大麻特区に! 大麻をそこら中で育て、みんなで幸せになりましょう! こんな時代だからこそ絶対的な安らぎが必要なのです!!」
 バカみたいな主張と、ズンズンと響く低音に、舞の意識は覚醒させられた。再来週の市長選に向け、候補者“清水沢 あすか”の選挙カーが反対車線でイカれたことをがなり立てていた。
 と、急に寒気が流れこんでくる。イチコが運転席側の窓を開けたのだ。
「お~い、ラリってるか~! お前ら車の中でハッパ吸って気持ちよくなってるだろ!」
 イチコが窓から顔を出し、清水沢の選挙カーへ大声で叫んだ。
「なにやってるんですか、イチコさん!」
 舞はイチコのスウェットをつまみ、運転席へ引っ張る。選挙カーの演説が止まった。車から顔に入れ墨を入れたヤカラ2名が、車線を横切ってこちらへ歩み寄ってくる。
「ハハーッ、ヤバいヤバい」
 イチコが運転席の窓を閉める。幸い信号が青に変わったので、入れ墨男に絡まれることなくハイエースは去ることができた。
「ダメですよ、イチコさん。あれ反社ですって」
「わかってるって、ごめん」
 言いつつ、その肩は笑って震えている。舞は今一度、イチコが自分という図形と相似にあると確信した。果てしなく大きいが滅びに向かう三角形であるのだと。もしかしたらイチコは自分にそれを教えてくれているのだろうか。

「ちょっと寄り道しよっか」
 イチコのひとことで、S県と東京の堺にある河川敷にやってきた。サッカーやテニス、野球などのコートがずらっと川沿いに縦列で並んでいる。平日なので利用者はなく、老人が散歩している程度だった。しばらく進むと野球コートに人がいた。赤、青、緑、紫、銀、金、紺、白……色とりどりのスウェットを着た、体格もまばらな者たちが各々の守備位置についている。
「あれって、まさか……」
「うん、軍団」
 イエローらしき巨漢の黄色スウェットが打席に立ち、ノックを打っている。守備練習のようだ。ファーストポジションの青スウェットが打球を捕り、一塁を踏んでからセカンドへ投げる。
「じゃあ、今のはブルー?」
「そう。意外と野球が上手いんだよ」
 しばらく眺めていると練習が終わり、色とりどりのスウェット連中がコートを離れ、ベンチに置かれたウォータージャグへ群がる。水を飲む順番で揉めたのか、スウェット連中は殴り合いを始めた。
「あ~あ」
 言いつつ、イチコは笑顔だ。いつものことなのだろう。
「元々、軍団は姐さんが草野球チームを作りたいから集められたんだ。そしたら仕事にも使える才能があるとわかって、手伝ってもらってる」
「傍から見るとアホですけど、すごいんですねえ」
 イチコは運転席の窓を開け、両腕を組んだ上に顎を乗せてケタケタ笑っている。
「イチコさんは野球しないんですか?」
「しないなあ」
「身体能力あるし、上手そうですけど」
「野球は、この世界に生きる人たちのスポーツだから」
「いいじゃないですか、一緒に遊ぶくらい」
「そうしたいけど……やっぱりダメなんだと思う。本当はさっきの蕎麦屋にも行っちゃいけないんだ。食べなくちゃ死ぬから食べてるだけ。死ぬのは怖い。それは誰にも言えないから、普通の人のように振るまう。すると蕎麦屋のオッチャンは優しくしてくれる。漬物をサービスしてくれようとしたりね。だけど申し訳ないから、わざと漬物を残して次からのサービスは不要だと伝える。本当は食べたいメニューが他にあっても、同じものしか頼まない。許されるならこの世界に爪を引っかけたいけど……許されない」
 舞は理由のわからない涙を流した。今、確かにイチコはここにいる。なのに仲間と混じって運動することさえ許されないのか。行きつけの蕎麦屋で自由に昼飯を食うことすら叶わないのか。
「でも、水原さんは違うでしょ?」
「違うのかもしれません。だけど違うと思いたくないです」
「だけど、やっぱり違うよ」
「でも、私……私は……」
 イチコにしてやれることはない。だが一緒に何かできるのではないか。そこで舞は思い出した。以前モトコンポをトランクから探すとき見つけたものを。
「テポドン、打ちませんか」
「えっ」
 舞は助手席を折り、トランクからロケット花火のセットを探した。夏に買ったきり使わなかったのであろう。ガスライターも見つかったので引っ張り出す。
「水原さん、なにをするつもり?」
「まあ、見ててください」
 花火セットの封をあけ、ロケット花火を取り出してガスライターの拳銃のような引鉄をひいて火をつけた。
 しけっているという懸念もあったが十連ロケット花火に火がついた。軍団たちめがけて火炎が飛ぶ。色とりどりの火花が舞い、色とりどりのスウェット連中が散り散りに逃げていく。
「この世界、クソですけど遊びがいはありますよ」
「水原さん……」
「そして私たちが遊んだところで、世界は何も変わりません」
 軍団がコートに集まってきて、練習を再開する。
「私の目標は、イチコさんが元の世界へ帰る日まで一緒に遊ぶこと……ダメでしょうか?」
「ううん……ありがとう!」
 イチコは運転席から飛び出し、ロケット花火を軍団に打ちまくった。
「イチコさん。また、あの蕎麦屋連れてってください」
「次からは割り勘だよ」
「はい!」

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  この河川敷での花火は市の条例により禁止されています。
  発見次第、射殺いたします。

      ちんたま市

  (穴川あながわ河川敷の看板より)
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つづく。