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『小説ですわよ』第6話

※↑の続きです。

 リストの返送者は全員轢いたので、イチコと舞は事務所へ戻る。ドアのベルに反応したのは岸田ではなかった。ソファに座る青いスウェットの少年が、気だるげにこちらへ顔を向ける。
「イチコ、おかえり~」
「ただいま、ブルー。じいやと姐さんは?」
「社長室で、なんか話してる」
 イエローにブルー。この少年も軍団のひとりだと舞はすぐに察した。
「新人さんか~」
「水原 舞です」
 ブルーがのそのそと立ち上がる。背丈は舞と同じか少し大きいくらいか。年齢はハッキリとしないが、高校生くらいの幼い顔立ちに見える。ブルーは寝ぐせだらけの髪をかきむしりながら、ゆっくり近づいて舞の胸を人差し指で押した。
「つんつん」
「わっ!? はぁ? えっ?」
 あまりに予想外の行動なので、舞は後ずさって両腕で胸を隠すしかなかった。
「うん、成分は間違いなく“この世界の人間”だね」
「いや、あのさ……」
「ボク、つんつんした物質の成分を分析できるんだ。この才能を持ってるの世界でふたりだけ。ひとりは僕で、ふたり目は――」
「そうじゃなくって! いきなり胸触るとか、イカれてんじゃないの?」
「あー、罪に問われるんだっけ。ごめんごめん」
 ブルーは「なにかまずいことをしたようだから、とりあえず謝っておこう」とでも言いたげに、髪をかきながら軽く頭を下げる。
「次からは、触る前に聞くようにするよ」
「触らせないけどね」
「わかんないよ。ボクと水原さんが恋人同士になったら、自然と触りあいっこするでしょ?」
「恋人になるわけがない。今度触ろうとしたら、指折りキメてやる」
「指折りって?」
 ブルーは、ニヤニヤと様子を静観していたイチコに目をやる。
「相撲の反則技。水原さん、相撲強いから気をつけなよ。ヤクザを2階からぶん投げちゃうんだから」
 ブルーもおかしいが、イチコもイチコで注意の仕方がおかしい。
「反則技なのに使っていいの?」
「人生という戦いに反則なんてないの。わかったか、小僧」
「わかった。反則がないなら、僕も無断で水原さんの胸を触るね」
「このクソリプ一休さんが……!」

 舞がいよいよブルーに相撲技を繰り出してやろうと腰を低く構えたところで、社長室のドアが開き、綾子と岸田が出てくる。
「あら、早速仲良くなれたのね。ブルー、友達ができてよかったじゃない」
「うん、嬉しいよ」
「どこをどう見たら仲良しと解釈できるんですか」
「それはさて置き、こっちは神沼に関する情報があるんだけど、イチコたちはどうかしら」
「うん、私たちも色々わかったことがある。おやつタイムがてら情報交換といこうか。じいや、準備お願い」
「かしこまりました。インスタントコーヒーと、ステラおばさんのクッキーをご用意いたします」
 クッキーをつまみながら、まずはイチコが返送者たちから得た情報――特に宝屋という男について――を共有した。
「宝屋……なるほどね」
「姐さん、心当たりは?」
「ないこともないわ。でもこちらの情報を共有してからのほうが、整理しやすいと思う」

 綾子は、軍団が小原の隠れ家を調査したことを話した。先日、工場地帯で発生した火事で燃えたのは、やはり小原の隠れ家のひとつだったようだ。先に警察や消防が立ち入ったため、証拠になりうる大半の品は回収されてしまっていたが、軍団は小原が使用していたコップの底と見られるガラス片を発見したという。
「それで、このガラス片をブルーにつんつんしてもらったの。ブルー、貴方から話してくれる?」
「うん。コップには、わずかに神沼の青汁が付着していたんだ」
「でも、それだけで小原と神沼に関係があると断定するのは、難しいんじゃないですか?」
「最後まで聞いて。付着していた青汁は、一般に出回っているものより何十倍も濃かった。つまり肉体を活性化させる効能が、普通のより強いってこと。同じ濃度の青汁が付着していたモノは、他の返送者の持ち物からも検出された」
 舞は小原の(面白みはないが)シンプルな強さを思い出した。
「濃ければ濃いほど中毒性も強くなってる。元々、一般に出回ってる青汁にもそういう成分があって……えっと……」
 ブルーが髪をかきむしったところで、綾子が鉄扇を広げて遮る。

「続きは私から。話が前後するけど、神沼の青汁には依存性のある成分が含まれていたのよ。一般に出回ってるものにもね。この世界には存在しえない……つまり例え悪質でもこの世の法では決して裁けない成分が含まれているということ。私がアイツを追っていた理由はそれ」
「発覚したのは、姐さんが嫉妬して神沼の足元をすくってやろうと青汁をブルーに解析させたからなんだけどね」
「黙らっしゃい! この成分……“マーシミズ893”は高濃度ならば一瞬で、薄くても継続的に摂取すると、洗脳されたような状態になる。マーシミズ893を欲して、相手の言うことをなんでも聞くようになってしまうの」
「そんなものを一般に流通させ、小原たち返送者には特別に濃いものを与えて操っていたということですか?」
「ええ。私たちは神沼の企みを、こう読んでいる」
 綾子は鼻で息を吸いこんでから話した。
「神沼の狙いは、ちんたま市民を青汁付けにして掌握すること。市長選に当選することで、さらに青汁を流通させ、より多くの人間を洗脳すること。さらには、ちんたま市だけでなく、もっと広範囲を……」
 綾子から、いつも浮かべている妖しげな笑みが消え、唇を噛んだ。眉間にただならぬシワが浮かんでいる。が、すぐに冷たい表情に戻った。

「そして高濃度の青汁の売人が宝屋という男。素性は全くわからないし、本名ですらないと思う。コイツを締め上げるには、こちらも身を切る必要があるわ」
「どういうことですか……」
「皮剥市にある“ウラシマ街”。返送者たちが隠れ住むコミュニティ。“飢える民の王”が支配する不可侵領域に踏みこまなくてはならないの。宝屋はそこへ自由に出入りできる数少ない人物」
 綾子は舞も、初めて青ざめた顔を見せた。手に持った鉄扇が震えている。イチコは気づいたのか、綾子に代わって話を続ける。
「何十年も前から返送者たちはいたんだけど、彼らの大半は行方不明から死亡者扱いとなって戸籍を失っていた。そういう人たちが集まって暮らす地域があるんだよ。ヤクザや半グレより厳しく、冷たく、強い掟で外界からの接触を拒否しながら、今も続いてる。掟に背く、あるいは掟を侵したものには死だけがある。そんな場所だ」
 いつもふざけているイチコの横顔も、この話をする瞬間だけは瘦せこけた病人のように見えた。だが舞の頭に浮かんだのは、たったひとつの答えだけだった。
「じゃあ、ウラシマ街を締め上げて宝屋の正体を聞き出せばいいんですね」
 その場にいる誰もが、目を丸くして舞に視線を集めた。
「ま、まあ、そうなんだけど」
「決まりですね。今日……はもう17時だから無理か。明日にでもウラシマ街に行きましょう。ね、イチコさん?」
「ああ、うん……だね。ははっ……」
 舞以外の全員が、諦めたように鼻から深い息を漏らした。

 翌日。西皮剥かわむき駅西口。イチコと舞はハイエースを駐車場に止め、線路沿いから一本外れた道に広がるウラシマ街へと向かった。かつて日本でも有数のソープ街であったが、今はトタン屋根に木造の家々が並ぶ貧民街に変貌していた。しかも家の戸や窓には、外部からの侵入や攻撃を阻むかのように鉄柵あるいはシャッターが施されている。車の音すらない静寂。どこからか銃声のような炸裂音と、男とも女ともわからない悲鳴が聞こえ、灰色に濁った空の下、また静寂が訪れる。
 舞は貧しさを差別するわけではないが、この異様さに危機感を覚えた。そして、ようやく昨日イキッた発言をした己の愚かさに気づき、ぶっ飛ばしたくなった。
「イチコさん、ヤバくないですか」
「でも知っている人もいるから大丈夫……かな」
 さすがのイチコも大人しい。道なりに進んでいると、軽トラをキッチンカーに改造した焼き鳥屋に遭遇した。甘く香ばしい匂いが、舞を安堵させる。焼き鳥屋のオヤジが前歯のない笑顔を見せた。
「おう、イチコちゃん。ブチ殺すぞ。なにか買ってってよ」
「おっちゃん、久しぶり」
(このオヤジ、今『ブチ殺すぞ』って言わなかった?)
「じゃあ……ぼんじりと皮を、2本ずつちょうだい。塩で」
「あいよ。ブチ殺すぞ」
(あ、また!)
 すぐにオヤジが注文の品を出し、イチコは暗記しているであろう金額を手渡す。
「そっちのネーチャンは?」
「新しい相棒」
「み、水原です」
「がんばってね。ブチ殺すぞ」
「あの……」
 疑問を挟む間もなく、イチコが焼き鳥2本を差し出してくる。
「焼き鳥、苦手?」
「す、好きですけど」
「食べてみて」
「はい……これって鳥なんですよね?」
「ハハーッ、当たり前じゃん!」
「じゃ、いただきます……」
 ぼんじりの甘い脂、皮のプリプリした触感、どちらもおいしい。不覚にも舞の心は安らいだ。
「おっちゃん、ごちそうさま~」
「まいど~。綾子お嬢にもよろしく。ブチ殺すぞ」
 イチコがオヤジに手をあげ、そそくさと歩いていくので、舞は慌てて後を追う。
「あの人、ブチ殺すぞって言ってません?」
「ここらじゃ『ブチ殺すぞ』は『あっ』とか『どうも』の感覚なんだよ。実際、あのおっちゃん、何人も殺ってるしね」
「えっ……はい?」
 舞の心が岩のように固まる。とんでもない場所に来てしまった。ズカズカと大股で歩いていくイチコを、舞はあたりを見回しながら追った。

 鉛色の空の下、トタン屋根の無機質な森をたただ歩く。
「ここの支配者“貧しき民の王”に会って、宝屋について聞こう」
「はい。イチコさん、その“王”と知り合いなんですか?」
「10年くらい前、一度会った」
「なるほど」
「……」
「……」
 人の気配はせず、イチコも全く喋らないので、どうでもいいことに意識が向き始めた。先ほど食べた焼き鳥の串2本が邪魔なのである。ゴミ箱はない。スポーツ新聞、マッチ箱、空き缶……そこら中にゴミが散らかっているが、ポイ捨てするほど腐ってもいない。邪魔な串をこすり合わせ、ギュイギュイと音を立てていると、イチコが気づいた。

「その串、捨てないでね。ここから帰れなくなる」
「わかってます。住民を怒らせるようなことしませんよ」
「そうじゃなくて、物理的に外へ出られなくなるんだ。その串は外界とウラシマ街を出入りするのに必要な、当日限りのチケットなんだよ」
「物理的に……門みたいなのがあって通れなくなるんですか?」
「もっと根本的。街と外界は空間の歪みで遮断されている。普通の人間は見ることも入ることもできない。存在するとさえ認識されていない。“王”が能力で作った特殊空間なんだ」
 舞は手の中の串が、急にダンベルくらい重くなったように感じた。よく見ると串の末端の角張った部分――多くの場合「ねぎま」「つくね」「レバー」などの部位が書いてある――に、今日の日付2022.12.14と印字されている。舞は串をポケットティッシュで何重にも巻いて、ジャージの上着のポケットへ入れ、しっかりとファスナーを閉じた。

「道理で。西皮剥って歓楽街で治安は悪いですけど、こんな場所があるなんて聞いたことありませんでしたから」
「規模は違うけど、ピンピンカートン探偵社と同じようなものだよ。最高位クラスの魔法使いは存在を隠すことができる。ステルス戦闘機みたいなものかな。確かにそこに存在しているが、認識できない」

「前から薄っすら疑問だったんですけど、求人情報サイトで探偵社を見つけて応募したんですよ。オープンな存在ってことじゃないんですか?」
「あれを見つけられる人は限られてる。条件は社長にしかわからないけどね。そういう意味でも、水原さんは才能があるんだよ」
「喜んでいいんですかね。あまり実感ないです」
「才能を自覚してる人なんて、ほんのひと握りだよ。私だってよくわかんないもん」
「イチコさんは強いじゃないですか」
「えっ、あれって才能なの?」
「朝倉未来より強いですよ」
「そっか、私は天才だったのか! ハハーッハッ!」
 イチコの特徴的な笑い声が、ひときわよく響いた。直後、ガラスが割れたような音がした。ふたりはよくわからないがイヤな予感がして、真顔に戻って早足で移動した。

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【悲報】ワイ、異世界に迷いこむwwww

1風吹けば名無し2022/09/01(木) 19:11:07.93ID:phyOBmqF0
ワイはソープ行こうと思っただけなんや
クッソ汚い家がずっと並んでる
人の気配はないし明かりも灯ってない
でも誰かに見られてる気がする
異世界に迷いこんでしもうた

2風吹けば名無し2022/09/01(木) 19:11:25.69ID:phBOCcpF0
異世界ならどうしてスマホが通じるんですかねえ・・・

3風吹けば名無し2023/09/01(木) 19:12:08.48ID:aAv1sSex0
西皮剥のソープ街だよね
イッチ焼き鳥屋でなんか買わんかった?

4風吹けば名無し2022/09/01(木) 19:12:35.51ID:phyOBmqF0
>>3
えっ なに そうだけど
なに? こわい

5風吹けば名無し2023/09/01(木) 19:13:14.22ID:aAv1sSex0
>>4
すぐ行くから動くな

6風吹けば名無し2023/09/01(木) 19:13:28.35ID:IPs7EmtPd
こわヨ

  (インターネット掲示板5ch なんでも実況Jリーグの某スレッドより)
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 数分歩いたところで、古びた集合住宅の並ぶ場所へと出た。建造物はいたるところに煤のような汚れがあり、崩壊して欠けていたり見たことのないツタ状の植物に覆われていたりする箇所もあった。それらが水の枯れた噴水広場を取り囲むように建っている。
「ここに王がいるはず」
 イチコに続いて、広場へ一歩踏み出す。その途端、舞の腕から背中から足の指先まで毛という毛が一斉に逆立った。遅れて、全身が針にさされたような痛みにも似た寒気が押し寄せてくる。視界の端では、いくつもの影が動いている。これまでなかった無数の視線が向けられていることが、本能的に察知できた。
「なにもしなければ、向こうも手を出さないから」
「は、はい」
 イチコは噴水の円形の囲いに手を触れた。その部分がガコッとスイッチのように押しこまれる。同時に床が開いて地下への階段が現れた。下はどうなっているのかわからない。日の光が当たっても尚、ひたすらに黒く吸い込まれそうな闇をたたえている。舞はイチコにただ続いて、その階段を下りていく。

 壁に手を当て、一段ずつ降りていった先には広大な灰色の空間だった。人間ふたり分ほどの太さの円柱が、いくつも立っており、天井を支えていた。どこに光源があるのかわからないが、見渡すことができる。進む足音が、一拍置いて残響を帰してきた。
 空間の中央には赤いカーペットが奥まで敷き詰められている。100mほどだろうか。黒ずんでおり、舞は祖母の家の玄関マットを思い出した。カーペットの両脇には、砕かれた彫刻や割られた絵画が散乱していた。それらのモチーフはいずれも天使であった。そして、カーペットの終着点には……

「おお。懐かしや、獣の子」
 胸元まで伸びる――もはや口と顎の境目がわからない――髭に覆われた口が、ひどくしゃがれた声を発した。古い血で染めたような濁った紅色の服をまとった老人が、半分朽ちた揺り椅子に身をゆだねていた。
 すかさずイチコはその場に片膝をつく。舞もそうしたほうがいいと判断して真似た。
「お久しゅうございます、王。突然の訪問をお許しください」
「よい。平素のように言葉を紡げ。獣を宿した子であった時のように」
「はっ。では無礼ながら……」
 イチコが立ち上がったので、舞も続いた。イチコも敬語を使えるのだと、今さらながら感心した。

「そなたらが来た理由は知っておる。宝屋のことであろう」
「ならば話は早い。宝屋の身柄を引き渡してもらいたい」
「できぬ」
「なぜ」
「あの男が“こちら側”の人間であるからだ。我が民を外界へ差し出すことは王にも許されぬ。王が掟を破れば、このウラシマは瓦解する」
「しかし宝屋は“外側”へ干渉している」
「知っている。我らは無知にして集合体の全知ゆえ」
「ならば、掟を破った宝屋は掟によって粛清されなければならない」
「否。彼は掟を遵守している」
「この世界にない物質をばらまき、返送者どもを煽り、罪なき民を操ることがか! 何人にも侵されず、何人も侵さず。それがウラシマの掟ではなかったのか!」
「心を荒げるな、獣の子。ウラシマの掟は、我が異能によって生み出されしもの。この領域に属する限り、抗うことは許されぬもの。そのはずであった」
「王の異能が及ばぬ存在……?」
「我はそう考える。同時に、ウラシマに属する以上、我らは彼の者を守る責務がある」
「宝屋の情報は提供していただけないと?」
「そう考えてもらって構わない」
「そちらの言い分はわかった。事を荒立てるつもりはない。退こう」

 舞はこのクソみたいに思わせぶりな会話を自分なりに整理してみた。ウラシマの掟は王の超常能力によって作られたものであり、それを破ったものは何らかの罰を受ける。だが宝屋はどういうわけか王の能力の影響を受けないので、掟を破ったことにはならない……ということらしい。
(んな屁理屈が通用するかボケ。パチ屋の三店方式のほうが上手くやってんぞ)
 舞は怒りをグッとこらえ、睨まずに王へ目を向けた。この男、髭と声で誤解していたが、よくみると肌にツヤがあり、シワひとつない。目はくりっとして大きいが、瞳の光が絶望的になくて死んでいる。意外と若いのではないか。うさん臭さが漂ってきて、腹立たしくなった。

 その視線に気づき、王が舞へわずかに身体を向き直らせる。
「人の子よ。そなたらの世界に災いが持ち込まれたことを申し訳なく思う。だが我は民を守らなければならぬ。どうか理解して帰ってもらいたい。でなければ我々は掟によって……」
 イチコが無言のアイコンタクトを送ってくる。「わかりました」と言えと。
「ええ、理解しました」
 イチコが胸をなでおろす。だが舞はここで言葉を止めることができなかった。すでに心に住まう相撲の精霊が囁いていたのだ。

(ムカつくなコイツ❗️💢 ぶちかませ😡❗️❗️)

「てめえの部下の尻拭いはできねえのに、私らには掟に従えだと? 王だかなんだか知らねえが、私と相撲しろ。私が勝ったら宝屋について教えてもらう」
「ダ、ダメだ、水原さん! それだけは!」
 イチコが汗だくで舞の肩を揺する。噴水広場へ踏みこんだ時と同じように無数の視線が刺さり、全身が鳥肌を立てる。おそらく王の従者だか部下だかが殺気を放っているせいだろう。だがこれは肉体の、皮膚の、表面的な反応にすぎない。舞の内なる怒りを抑えられるものではなかった。
「答えろ! 相撲をやるのかやらないのか!」
「……フフ、面白い。ヤドリギの枝を折る者が、ようやく現れた」
 王が立ち、四股を踏んでみせた。
「我は千代の富士こそ、最強の力士だと信じている。人の子よ、そなたは?」
「……貴乃花!」
「よく聞こえなかった。サンタフェ?」
「宮沢りえは関係ねえだろうが! さっさと始めっぞ!」
「よろしい」
 舞は蹲踞の姿勢をとり、両拳を床につけた。
「水原さぁん!」
 イチコの慌てた叫びは初めて聞いたが、もはやそんなことは関係ない。王が左の拳を床につけ、そして右拳をつける――
 瞬間、イチコが反則の頭突きを、王の顎めがけて繰り出す。真正面から、王と四つで組み合うはずがない。
 だが王はそれを読んでいたのか、さっと身をひるがえして舞の左上手を取ろうとしてくる。舞は王の左半身側へ跳び、相手の左手の指を掴む。
(裏必殺……指折り!)
 王の指を反対側に曲げながら、右の張り手(に見せかけた目尽き)を出す舞。ここで舞の身体が浮いた。王が指を掴まれた左手を強引に上げ、舞のバランスを崩したのだ。続けて舞は右足を払われ、空中で半回転したあと背中から床に叩きつけられた。

「そんな……」
「我は王。民を導く標。民が明日を願う限り、決して地に伏すことはない」
 王は両手を叩いて埃りを払い、玉座に戻る。
「も、もう1回! もう1回だ!」
 立ち上がって玉座へ迫る舞に、王は手のひらを突き出して制止する。
「そなたの『今、この瞬間のみを生き抜こうとする精神』は称えよう。それは覚悟なき返送者の心をも凌駕する力だ。しかし滅びを受け入れることと同義であり、己への甘えでもある」
「ふざけるな。このまま帰れるか! もう1回、相撲をとれ!」
「水原さん」
 イチコが、今にも飛びかからんとする舞の肩を掴む。そして舞を強引に向き直らせ、その頬を張った。
「イチコさん……」
「水原さん。今、キミが進もうとしている先には何もないよ」
「!!」
「私たちでは王に勝てない。帰ろう」
 そう語る表情は怒りでも悲しみでも失望でもなく、“無”だった。舞は赤くなった左頬を抑えたまま、なにも返せない。

 イチコは王に深々と頭を下げる。
「王よ。この度のご無礼、何卒お許し願いたい。彼女も自らの世界を守るために必死なのです」
 左頬のじんじんとした痛みが、舞を冷静な思考に戻した。イチコは自分の愚行の尻拭いをしようとしている。
(ああ、またやってしまった……)
 舞は謝罪の礼というより、うなだれるように王へ頭を下げた。
「よい。そちらの想いも理解しているつもりだ。しかし先ほど申し上げた通り、宝屋について何ひとつ教えることはかなわぬ。お引き取り願おう」
「はっ。失礼いたします」
 イチコが踵を返し、出口へと赤いカーペットの上を歩きだす。舞もそれに続いた。

 会話もなく、ただただ道を引き返す。気がつけば、焼き鳥屋に遭遇した場所まで戻ってきていた。
 舞のポケットから炭酸がはじけるような音が聞こえる。ポケットの中から串を取り出し、くるんであったティッシュをほどく。そこに串はなく、金色の砂があった。振り返ると、あの不気味な家の群れはキレイサッパリと消えていた。コンビニにサラ金、ネパール料理屋、ソープランド。駅近くの裏路地にありがちな風景が、各々の看板から明かりを放っている。イチコが言った通り、ウラシマ街という異界から現実へ戻り、チケットが効果を失ったのだろう。

 空には深い青のカーテンが半分ほど下り、赤く滲む夕焼けを覆い隠そうとしている。乾いた風が、舞の左頬を冷やした。手を当てると、わずかに熱を帯びているが痛みは引いている。
「さっきは殴ってごめんね」
「いえ、私こそ暴れてすみません。イチコさんまで巻きこむところでした」
「それは別にいいんだ。でもさっき言ったことは本当だよ。今、キミが進もうとしている先には何もないと思ってる」
 舞は、その意味に心当たりがあった。自分には夢や目的なんてものはない。それを掴もうとする気力も能力もない。返送者どもを轢くのが気持ちいいという理由だけで、イチコの助手席に座っている。
「イチコさんの言う通りです。わかってはいるんです。でも。なにもない人間は、積み重ねることを諦めて瞬間瞬間を生きるしかないんですよ……」
 甘えだとは、舞にもわかっていた。なにか勉強をするだとか、身体を少しでも鍛えるとか、それによって道を切り開ける可能性はある。絶望的な貧困ではないし、年齢による時間の猶予もあるだろう。だが……あまりにも足がかりがないのだ。舞には失敗の経験しかなかった。成功の喜びをなにひとつ知らない。返送者たちとギリギリのところで勝負を繰り広げた末に噴出する、危ういアドレナリンの甘さしか味わったことがないのだ。

「……水原さん、明日はお休みだよね」
 舞は話題の転換に戸惑いながら「はい」と答える。探偵社の休みは水曜と土日だ。差し込みの依頼や緊急を要する返送者への対応などがあれば、出動することになっている。だが、その代わりの休みは、しっかりと得られる。例えば今日は水曜だが、ウラシマ街への調査を行うために出勤したので、舞は事前に勤怠管理アプリで明日の休みを申請し、了承を得ていた。
「明日、特に用事がなければ事務所まで来てくれるかな? ふたりで話したいことがあるんだ。すぐに終わるから」
「……わかりました」
 今日の狼藉でクビにされるかと一瞬冷や汗をかいたが、イチコとふたりだけで話すとなれば違うのだろう。イチコの表情からして、真剣な話題であることは確かだ。
「今日は休みなのに、働いてくれてありがとね」
「いえ、ウラシマ街に乗りこもうと提案したのは私ですから。なのに、なにも情報が得られないどころか、ご迷惑をおかけして……」
「あはは、いいって。宝屋が厄介なヤツってことはわかったし、私も王の偉そうな態度は昔から嫌いだからね。むしろ水原さんが喧嘩を売ってくれてスッキリしてはいるんだ」
 イチコは両眉の尻を下げて笑う。「でも手放しには褒められない」と言外の意図を感じたので、舞は軽く頭を下げた。
「車に戻ろう。よければ、家まで送ってくけど?」
「あ、事務所に荷物を置いてあるんですよ」
 これは舞が無意識についた無意味な嘘だった。自宅の住所は探偵社が把握しているが、パーソナルな領域に誰かを近づけさせたくなかった。しかしイチコの厚意を無下にしているようで、心が痛んだ。

 舞とイチコがハイエースを停めてあるコインパーキングへと戻ってくると、フルフェイスのヘルメットをかぶった4人組に行く手を阻まれる。ヘルメット集団は鉄パイプやナイフを手にしていた。
「ええっと……あんたら、さっきウラシマ街に行った?」
 そう話す声は、若々しい。
「行ったよ。キミたちは?」
 ヘルメット集団は顔を見合わせ「こいつらだ」などと頷きあう。舞は瞬時に、王の追っ手か宝屋の雇ったチンピラであろうことを察した。おそらくイチコも同じであろう。両手を正中線の前に出して戦いの構えを取った。それに対してヘルメット集団はたじろいだのかビクッと両肩を上げたが、すぐに各々の武器を構える。
「キミたち、返送者? そうじゃないなら、こっちも警察の処理とか面倒だから穏便に済ませたいんだけどなあ」
「は? 変装? んなの当たり前っしょ」
 集団のひとりが、自らの指でヘルメットコンコンと突いた。イチコの話が通じていないらしい。
「アンジャッシュのコント状態か。かかってくるなら仕方ない。しばらく痛みが残るよ」
 イチコがため息交じりに腰を落とす。フルフェイス集団が武器を振り上げ、イチコへ飛びかかる。その瞬間――

「ダラがぁ! ブチ殺すぞクソガキ!」

 怒声と共に、フルフェイス集団が全員崩れ落ち、うつ伏せに倒れる。その背後に、昼間の焼き鳥屋のオヤジが立っていた。イチコが喜びか驚きの声をあげて、目を丸くする。
「おっちゃん!?」
 焼き鳥屋のオヤジは、イチコに片手をあげて挨拶すると、フルフェイス集団の頭をひとりずつ踏みつけていく。オヤジは動かなくなった集団のひとりのヘルメットを取り、焼き鳥の串を眼球に突きつける。
「目ん玉潰されてぇか! オォ!?」
 素顔をさらされたチンピラが情けなく涙をボロボロとこぼす。浅黒い肌に、汚らしい金髪。舞とそう変わらないか、若い齢の男であった。
「や、やだ! やめて! 俺ら裏バイトで襲えって言われただけなんです! だから、ああっ……!」
「その裏バイトを回したヤツは? 言え、この野郎! ブチ殺すぞ!」
「あの、スマホに……Twitterで……」
「見せろ、バカ野郎!」
「こ、これです……」
 オヤジがチンピラからスマホを取り上げ、舞たちに画面を見せてきた。一昨年に流行したアニメの黒幕キャラのアイコン。名前は“Hades”。
「あのう、スマホを返してもらっても……」
「いいわけねえだろ、この野郎! スマホは没収だ!」
「いや、それは!」
 オヤジがチンピラから有無を言わさずスマホをひったくり、イチコへを投げる。そして履いていた二本歯の鉄下駄を手に持って、チンピラの頭をはたいた。そのままチンピラは動かなくなる。
「オッチャン、ありがとう。殺してないよね?」
「気絶しただけだ。ったく、若いんだから後先考えろってんだバカどもが」
 オヤジが地面にツバを吐く。それはチンピラに向けられたものだが、舞は自分にも刺さっていた。
「まあ、これで宝屋の手掛かりになるかもしれねえだろ。スマホは持っていきな」
「助かるけど、ウラシマの掟に反してない?」
「ウラシマの外で若い女に襲い掛かったバカをシメただけだ。気にすんな」
 オヤジは前歯の抜けた笑みを見せ、気絶したチンピラの足を引きずりながら去っていく。
「手ぶらで戻ることにならなくてよかった。私たちも事務所へ帰ろう」
「あのチンピラたち、どうなるんですか?」
「警察に突き出されると思う。おやっさんは怒らせちゃダメだよ。ハハーッ!」
 舞は世界の広さを知った。

つづく