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冥い(くらい)時の淵より

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亡き父が遺した小説です。小説家を目指し、新人賞に応募したけど 選考に落ちた原稿です。 叶わなかった父の夢を叶えたいと思い、マガジンに投稿します。 40年以上前の作品です。
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冥い(くらい)時の淵より

冥い(くらい)時の淵より

序 1

昭和40年。
1台の乗用車が、国道168線を北上していた。
和歌山県の那智勝浦を発って4時間、十津川を過ぎて、
車は谷瀬にかかる所であった。

国道とはいえ、168号線の路面はお世話にも良いとは言えない。
舗装されている所はほとんど無い。
凹凸が激しく、雨の後は水溜りが道を覆う。
山間を縫う道は細く、カーブも急で運転は困難である。
奈良の五条に出る168号線は、右手は落石の恐れのある

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序 2

恭一が、バックミラーに不審を感じたのは間も無くだった。
通行車はほとんど無い。
しかし1台だけ、執拗にくっついて来る大型トラックがあるのだった。
車間距離をほとんど取っていない。
運転を始めて、まだ3ヶ月の恭一であった。
おまけに、道は急カーブの多い難所である。
追突されるのではないか、との怯えが恭一を襲った。
道を譲ろうにも、それらしい路肩も見当たらなかった。
スピードを落とすと、バッ

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序 3

宮西浩二はジャンパーの襟を立てながら、斜面を走り下りていた。
昨夜の情事で寝過ごし、遅刻しそうであった。
朝の冷え込みもキツくなった。
宮西の母は、きちんと宮西の朝帰りを知っていた。
寝ぼけまなこの息子に、露骨なイヤミを言うのを忘れなかった。
「年寄りは眠りが浅く、耳が良くなると来るわ。やりにくいと言うたら…」
それでも宮西は、口元に自然と笑みを浮かべ、
軽やかな足取りで勤務に向かった。

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序 4

青年達は緊張して働き続けた。
そして、2つの死体を車から運び出した。
皆の見守る中、ひとりの青年の腕の中で、
奇跡的に命を取り留めた少女が、今は泣く元気もなく、
ぐったりと横たわっていた。

母親の体がクッションとなった事は、全員に理解された。
それにしても、20メートル以上もある絶壁での転落である。
青年達は物も言えず、背筋の寒くなる思いで、
腕の中の少女を見つめた。
あたかも、母から

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序 5

夜10時。
京都から知人が駆け付けた。
夕刊で読み、取る物もとりあえず飛んできたのだった。
まだ若い夫妻であった。
取りあえず、少女を見舞った。
妻は少女の名を繰り返し呼んでは泣いた。
何度も少女の髪を撫でた。
夫は、目をつぶって壁際に凝然と立っていた。
そして案内を請うと、両親の、ふたりにとっては
帰らぬ友人に面会すべく出発して行った。

ふたりとも、今夜はこの村で過ごすつもりでいた。

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序 6

少女の名を呼ぶ声が、あちこちに聞こえた。
人々が慌ただしく走り回る足音が続いた。
そして、総ての報告は、少女がどこにも見当たらない、と
言うものであった。

やがて駐在が駆け付けた。
まず、少女の部屋を調べた。
全く異常がなかった。
少女が収容された時と同じ状態であった。
あたかも、少女がベッドに寝た姿のまま蒸発したようだった。
駐在は頭を抱えた。
とりあえず、村にこの件を通報する事にし

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一  1

京都。
11月も末になると、京都の冷え込みは一段と厳しくなる。
落葉は歩道を敷き詰め、寒風に乾いた音を立てて舞う。
並木にも、もはや身にまとう葉は残り少なく、
寒々とした細い裸身を、冬空に晒そうとしていた。
平安神宮より西へ少し、東山通りに面して
スナック『馬酔木』がある。
昼は観光客や学生で賑わうこの界隈も、夜12時を過ぎれば
さすがに人通りは少ない。
時折、飲んだ帰りの学生がある位

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一  2

村上は、いつもと変わらず
あまり機嫌の良い状態ではなかった。
ここ1、2年、この虚無的な表情が、
村上の平均的な顔と言っても良かった。
何かを考えている、と言うよりも、
常に、得られなかったものを回顧しては、
不毛な追想にふける、と言ったイメージであった。
そして、アルコールの摂取量と比例して、体の奥から、
不気味な、陰鬱な、殺気のような妖気が滲み出すのだった。

もう店には客はいない

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一  3

およそ、生き甲斐とか理想とかと、対極的な
位置に自らを設置しようと思って来た村上であった。

股間からは継続して快感が届けられていた。
名美は、まるでペットを可愛がるかの様な
熱の入れようだった。
この数瞬に、彼女のそれまでの知識全てを
動員させて、村上の局所に対峙しているかであった。

「もう!マーちゃんったら、また考え事してるんでしょ!
少し真面目に感じなさいよ!」
村上の股間で、

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一  4
村上は、ストイックに自己を抑制し、
大学で兄と共に行動すべく、
着々と日々をこなした。
そして入学したのだった。
しかし、兄の笑顔は見られなかった。
村上と会っても苦しそうな表情が目立った。
本心は常に聞けなかった。
帰省した時の、両親の声が聞こえる。
兄は日本を捨てる気になっていた。
オヤジは怒り、オフクロはヒステリックに泣いた。
今思えば、兄にしても、両親にしても、
仕方なかったのか

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一  5

「名美さん、またモスコ?」
村上は、二人の時間の空虚を少しでも
言葉で埋めようとするかのように言う。
「モスコねえ。
ふん、やっぱりモスコ飲もうかなあ。」
名美は殆ど独り言のように言うと、
グラスにアイスボックスから氷を放り込み、
ウォッカに手を伸ばした。
モスコミュールはすぐに出来た。
名美はカウンターから出ると、
村上の横の椅子に坐り、今一度村上の唇を求めた。
ふたりがグラスを合わ

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二  1

広瀬由希が失踪して一週間になる。
若原徹也の焦燥は日ごとに深まり、
快活な顔に苦悩の翳りが刻まれていた。

深夜。

若原は安物のコートの襟を立て、
寒風に晒されて東山通りを南に歩いていた。
どこに行くのか、あては無い。
頭の中は、広瀬由希の行方の事で一杯であった。
この一週間、若原は、刻一刻と
身を削がれる思いで暮らしていた。
由希の家には毎日電話を入れた。
母親は、今日も帰っていな

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二  2

ひとつの光景が目の前にある。
むしろ妄想であった。
由希の、清楚な白い肉体が見える。
その周りに数人の男達が居る。
どれも残忍な目を持ち、
毛だらけの無骨な体をしている。
男達は、美味そうな餌を前に、
その体の奥から欲情の焔を燃やしていた。
由希は無力であった。
恐怖と絶望に見開かれた由希の目を、
若原ははっきりと見た。
誘拐の妄想は、若原を絶望の淵に追い込んだ。
もしそうなら--

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二  3

何故、由希は失踪したのか--
若原の胸をその問いが重苦しく締め付ける。
愛し合っていた、と思う。
心変わり、とは思えなかった。
判らぬが、彼女に失踪させた理由が
あったのだろうと思う。
それなら何故、一言、自分にそれを
言ってくれなかったのか--
いや、その理由まで言わなくとも良い。
何故、別れも告げず消えてしまったのか?--

あと、残された手がかりはあるだろうか、と
若原は考える。

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