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日常の必要性と生活

こんにちは!僕つい前に自己理念とヴィジョンに関しての背景を説明しました!ぜひ見ていない方は、見てください。
ちなみに今日僕のところでは雨が降っています。家の中がほんわりあったかいように感じています。

この内容を見たうえで今回のお話を見ていただければ嬉しいなと感じるのですが、ぼくにとっての日常とは、どう大切なの?が語られていなかったと思います。なので今回そこに焦点を当てて書ければなと思います。

日常の大切さ

例えばですが、社会において平日毎日出勤することが日常だとするのであれば基本40~50年くらいは変わらない日常を過ごしてしまいます。
ただ僕は非日常の連続体こそ、日常であるという風に感じるのです。
それは体験からのキーワードとして”人”や”繋がり”が出てきたように、いろんな人と会ってきた分だけ根拠が深くあります。
ある意味閉鎖的なこととしての環境として日常を定義するのであれば、そこでの人とつながりは必ず開かれません。
僕自身はなぜ繋がりを大事にしているのか?と聞かれたら、人に包まれて生まれたから。と言います。
歴史的な文脈の中でもここは分かりやすいかなと

ちょうど僕ら人類が定住し始めたのは今から一万年前です。
そこでは定住に伴う散文言語化優位になっていった時期としても有名です。
いわゆる、”情報”機能をメインとするもの、つまり意味そのものであり。ということです。これはある意味、今の資本主義経済の源となっているそのものでしょう。
ただそれ以前の定住しなかった時代、遊動段階では詩的言語が優位になったいました。それは”感覚”機能がメインでありある意味、人それぞれに結び付いた”意味”それ以上の力を与えることができるものでした。
その遊動段階では集団で動くこと=人間の生存本能があったためにその繋がりを保持するために詩的言語が優位になっていました。


僕自身はこの点から、詩的言語は共通感覚、仲間意識的な無意識があったうえで人間が生活をしてきた基盤があると考えています。
その点では”繋がり”というものがかなり大事であることが分かります。
一方で考えてみると、その詩的言語は他者すべてが認識しているかと言われたらそうではないと思います。
なぜかというとそれは感覚的な部分なので体験を通じてしか得れないものそして言語化したいという強い意志や興味がない限りその分野の学習もしないのです。
ということは初めからすべて理解している人は少ないのではと思います。
またそのプロセスを理解すると初めてそんなもんかと思うのです。
その中で過ごす日々というものは資本主義的な観点から見ると”無駄”なのです。なぜならより早くサイクルを回すという点での効率的なほうが資本の点では優位だから。
僕たちはその繋がりが前提に成り立っていた経済や社会をいつのまにか気にせずにその前提のないものとして受け止めてしまっていることは確かだと思います。
ぼくがその中で日常は無駄のあるものをして定義して、その日常を日常として受け止めることからそれぞれが初めて人類的な側面で社会を見つめることができるのだと思うのです。
その点で日常が大事でありそこには”繋がり”が散乱しています。
かといって日常を大事であるということをサイトを通してみんなに伝えているという点では意味がないんです、意味がないというよりは無駄であるんです。
けど無駄で良いのです。無意識つまり見えていないものを理解しようとすると必ず分節されるのです。意識であり無意識であるものはないのです。
ただ矛盾していてもよいと思ってます。それが矛盾であるから。
僕自身はそれと同じ感覚で言えるものも日常でないかなと思います。
ただそこをそのままに大事にすることで仲間を求めるし、そのような共通の感覚が生まれると思います。
だからこそ再帰としての日常を感じれる。そこに充実が生まれる。この充実さこそ大事にするべきだと思います。
これはある意味非日常とも言えます。そのくらい定義しずらい問題でもあります。前述した連続体としての非日常とはここに値し、僕の言う日常の大切さとは再帰的な意味での日常でもあります。
その中でその意味以上に動かされるようなものがあってその言葉が作用していきます。

生活

生活とはそのくだらないものとくだらなくないものとされているものが両方に混在しています。
その意味合いは人によって異なるのだけれども、個人感覚でいうと両方ともくだらないものなのですが笑
ただまっすぐに歩けば一番早い道をまっすぐに歩く場合にそれはくだらなくない、一方そのまっすぐな道を少し道草したりとかするときにはくだらないと表現することがあると思います。


楽しいという意味合いでいえばくだらないほうのほうが楽しいのです。その時だけやる”べき”ことを忘れたりとか、どうでもいいことや脈絡のないを話したりするその感覚こそして詩的言語のより近いものだと思います。
僕自身は詩的”言語”と規定する必要もないと思います。
もっと簡略的に抽象的な言葉で”音声”で良いかなと思います。楽しい内容なら力が湧いたりするし楽しくない内容ならむしろ力ややる気がさらに湧かなくなると思います。
そんなことを感じながら、今を生きれる、生きることができてるなと思えれば今を生きようとすると思います。それが生活だと思うのです
僕自身は先走った、未来が~だから、~しようとか、過去に~だったから、~ならないといけないというものは必要ないと思います。
~だからという人は行動していないからそう言えるのです。
日常に向き合うことこそ、自己を受容できるし、他者を受容できる。
僕はその感覚を忘れない、忘れたとしても思い出せれるようにしたいなと思っています。
それも”繋がり”があるからできることだと思います。
僕の定義する生活には繋がりが前提にある日常という意味があります。

最後に

この前お寿司をおごってもらいました。おいしいものを人と食べるのはやはり格別ですね。僕もどこかでだれかにおごってあげたいというよりは一緒にご飯を食べたいですね。美味い食べ物はやはり美味いのです(笑)ぼくはそう体験したから強調して言えることができる。そうやって人に伝染してけばご飯ネットワーク理論が作れますね。


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