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色えんぴつ

大学で芸術の授業を取っている。私は人文学部の所属なので美術とかそういうアート系の学校ではない。ただ一般科目で芸術が取れるのだ。やる内容としては難しいことは求められない。えんぴつを60層塗りつぶして濃いグレーを作る課題や、色えんぴつを同様に60層塗りつぶして濃いグレーを作る課題などである。最後に応用が入って、それらの技術を使って氷の溶けた少し水が溜まっている状態の絵を描く。陰影をつけて、よりリアルな仕上がりとなるように。ここだけはちょっと難しいかもしれない。

自分で言うのもあれだが、私はかなり繊細な筆圧で、周りの人を見てみると明らかにがさつだな、と思う。ある人はもう紙が破けそうになっていたりする。教授はそれを聞いてあたふたして対応策を考えてる感じだ。教授は基本優しい人だが、大人数、そしてかなり「言うことを聞いてない」学生たちも多いので、半ばキレかかっているような情景である。でもキレないで踏ん張っているところが、優しいと思う。

友人と絵を描きながら喋っていたら、友人がパチンコで6万の利益を出したらしい。この一ヶ月で少しずつ増やしていって、トータルは6万の利益だと。6万!?6万なんてかなり働いて手に入るお金だ...なるほど、パチンコにハマるのもなんだかよくわかる。自分はパチンコはやったことがなくて、今度教えてくれとその友人に言っている。スキのお礼にパチンコで読書代を稼いでいる、と書いているのはこれから自分に対してパチンコをすることを確約するために書いている。要はパチンコやりたい!ということ。

通路を挟んで隣に座っている女子大学生が芸術の教授に話しかけようとして「すみません」と声をかけたのだけど、教授はすでに通り過ぎていて、なぜか私にすみませんと声をかけられた気がした。なんで声をかけられるんだろうと思って、そっちの方を見てみると女子大学生と目があったが彼女は何も言わなかった。意味不明だなと思いながらお絵描きを再開し、数刻後に教授に声をかけていたのでそういうことかと理解した。恥ずかしかった。そしてまたひとつ感じたのは女子大学生はひとつ足りない、人間だった。分からない、こんなこと勝手に言うのはあれだけど、ロックバンドとか推してたりするんじゃないか。私はそれを知っている。いつも町の最寄りのローソンの店員がそれと同じ独特の雰囲気を放っている。その2人に共通しているのは「自分の世界」に生きているということだ。たぶん彼女らは自分の推しているものが最上のものだから、私が普段感じる恥ずかしい、痛い、辛い、という感情に見向きもしない、いやする必要がない部類の人たちだと思われた。彼女らは生粋の精神安定をしている人間に私には見えた。要はうつ病と縁が遠い人間たちな気がした。

うつ病と縁が遠い人たち、というのがこの世の中には多くいるらしい。そういう人たちはすごい。「自分だけの世界」をくっきりと持っていて、その自分の推しを信じ抜いている。ただそれが世代性にならないかもしれない、ということを私はなんとなく感じているけれど、現に精神不調に陥らない彼らのタフなメンタルは見習うべきものがある。私は何かを推している、人間たちに、心の内から圧倒されるような気持ちを抱いていたことがあったが、色々あらかた地獄的な経験を通り抜けて思うのは、世の中の有名人が自殺で亡くなってしまうのと対照的に、(いや表裏一体なのか)うつとは縁の遠い人間がいるという点において、私は人間の種類の幅を垣間見たような気持ちになる。自殺とは程遠い人間がいる。それは心に信じて疑わない推しがいるから。じゃあその推しがいなくなったら?とか聞く人がいそうだけれど、私は人生を賭けて人を推せるような人間が少しのことでへこたれるようには思えない。彼らはまた何か別の対象を見つけ、それを信じて生きていくのではないか。そんな気がする。

昨日の内臓がいかに綺麗に描写されているかによってそのアニメの価値が決まる、と言っていた友人が魚べいであまり箸が進んでいなかったので、どうしたの?お腹いっぱいなの?と聞いたら、「緊張しちゃって」ということを言っていた。少しおかしな話だったけれど、どうやら外出先でいっぱい食べられないらしい。そしてそれはどこか私も分かる気がした。

その友人は実家の大工を手伝っていて、大学を4年前に一年で辞めてしまったから、一年分の奨学金を返しているらしい。仕事もまばらだから、そんなに多くない稼ぎから、保険と奨学金を払っているらしい。彼は一年のはじめの段階で心身の不調によって大学を休学し、そのまま大学を辞めてしまったから、後から迫ってくる奨学金が少し可哀想だ。そんな中私と遊んでくれるのはありがたいと思う。

その友人とソードアートオンラインオルタナティブガンゲイルオンラインの話になって、登場人物のレンが最初にリセマラ(いいアバターが出るまで何度もデータの消去とログインを繰り返す)をしていたところが非常に記憶に残っている、と話していた。なるほど、そこが印象に残るのかぁと思ったりして、私は一つアニメ作品が誰かの人格形成に寄与している節を見ることができた。私は劇中作のピルグリムが好きで、ラインミュージックでもよく聞いている。ReoNaさんが歌っている曲だ。あと、クライマックスで流れる「independence」も好きだ。それも何度も聞いている。

ソードアートオンラインオルタナティブガンゲイルオンラインでは、主人公のレンというキャラはリアルでは確か大学生で、高身長な女性である。そして知り合うピトフーイという残虐凶暴な女の人(ラスボスになる)は、実は見た目は清楚可憐な神崎エルザというアーティストだった、というオチとなる。私が面白いなと思うのは2人の人物が全く正反対のアバターで仮想世界で戦うことであり、自分のコンプレックスの裏返しとして仮想世界では理想の自分のキャラになる、それが主人公レンとピトフーイとで見事の正反対に交錯する、というところだ。そのコントラストがいいな、と思った。

パチンコで六万儲けた友人はそろそろ提出の近づいた芸術の課題にひぃひぃ言っていた。勿論私も。六回分の授業の課題をまとめて出すので、まだいいや戦法でずるをしてきた私たちには当然の報いだ。その友人はゲームが好きらしい。「ああ、帰ってゲームしたい」とボソッと呟いた彼だが、それを許すことのない圧倒的な量の課題がその彼の隣に寄り添っていた。可哀想に...。ストリートファイターとドラクエをやってるらしい。暇さえあればゲームをして、あとは週に二回の友達の家の手伝い(梱包だったかな?)をしているらしい。それがバイトである。私も二部と塾の時間の関係で土曜日しかバイトを入れていなく、あとは暇があればYouTubeを見ているから、なんとなく似ているような気がした。(命懸けでブログ書いてたんだけどね..!!)

その子も定時制を出ていて、私も定時制を出ているから、少し境遇が似ているところもある。定時制を出て、大学の二部に入ったのだから、私たちは生粋の夜行性なのかもしれない。

私は肌が少し荒れていて、思春期から肌荒れしやすい体質だったのだけれど、昨日16皿も寿司を食べたのにあまり肌の変化がない。普通なら何個もニキビができて当然なのだけれど、なんか最近、肌の調子が単調になってきている気がする。ここにきてようやく肌荒れの期間が終わり?(遅すぎる)なのか、ちょっと暴食してもいつもならすぐに荒れていたのに、今は知らんぷりである。

肌荒れで思い出したけれど、私は昔肌荒れが嫌だった。そもそも醜い心を持っているのに、外見まで醜いなんて、と思って、本気で嫌だった。しまいには「肌荒れが今治ったとしても、もう私の自尊心は回復しない」とかいう名言チックなやさぐれを見せていたので、本当に肌荒れが嫌だったのだと思う。この問題は非常に根深いものだし、私はあまり大きなことを言えないが、もし肌が荒れていたとしても、その肌の状態で人を断定するようなものがこの世界なのだとしたら、それはその世界が間違っていると思う。たぶん本当の意味でその世界が汚いと思う。肌荒れといつ一つの身体機能の不調で、人格が断定されるのは、非常に軽薄な価値観を持った人間の間でしか行われない、しかも彼らは誹謗中傷とも思っていない(だから取るに足らない)文句だと思う。私は現に見た目はそこまで優れなくても、清い心を持った人たちを数人知っているから。そしてこれは不思議なんだけど、清い心を持っている人はなぜか見た目もきれいになっていくのよね。それは周りの人がオシャレをおすすめするから。これがなんとも不思議なことだと思う。でも当たり前のことでもあると思う。

私はお酒が飲めなくて、ジュースもあまり好んで飲まない。タバコも吸わないから、(一回吸ってみたいとは思っている)、あまりお金がかからない。最終的に落ち着くのはお茶である。お茶で思い出したけど、芦田愛菜さんと藤井聡太さんがお茶のCMに出てて、そのお二人の対談があったけれど、ふんわりとふんわりのふんわりした対談で心が温まったのを覚えている。あと、藤井聡太棋士に関してはこれまた別の農家をやっている友人と通話をしていた時に、「藤井聡太を見ると自信なくすよね...」と言ったら「あれは自信なくすねぇ..(笑)」と話していて、それが感動だった。私は個人的に藤井聡太さんを見て自信を失くすところは本人が謙虚なところで、それが農家をやっている友人も同じことを思っていて感動したのだ。その農家をやっている友人は中学から学校行ってなくて、でも今は大きな実家の農家を継いでる人なんだけど、すごい人ができてて、一瞬もし自分の彼女がこの人と出会ったらこの人に彼女を取ってかれるかもしれない、なんて思ったくらいの人格的な人で、優しく、思いやりのある人なんだけど、その人が「藤井聡太見ると自信なくす...」と価値観が合ったのはなんだか嬉しかったんだ。億儲けてます。みたいな経営者を見ても自信はなくならないけど、藤井聡太を見てると自信をなくすのだ。これ分かってくれる人も少しいるはず。

恩田陸さんの「spring」という小説を買ったのだけど、まだ見終わってないのだけれど、その中の登場人物の1人(たぶん蜜蜂と遠雷のカザマジンに相当する人)が、バレエを踊る時にそのバレエを踊るところで枠組みを見るのではなくて、世界を全体的に捉えて、その調律を合わせる(私の受け取った感覚だけど)というような感性を持っていることが描写されるのだけれど、それがなんだか心に突き刺さるものがあった。1人だけ別の世界を見るような目をしていて、1人だけ世界を別の視点から捉えている。その眼は世界の調律とバランスを確かめようとしていて、表現はただその調律に合わせているに過ぎない。こんなイメージを受け取ったのだけど、なんだかぜひ、こんなふうに自分も生きたいな、って思った。仏教でお釈迦様の行動のことを身業説法(しんごうせっぽう)と言って、それは真実の心そのものであるのがお釈迦様だから、お釈迦様はその行動ですでにこの世の法(真実)を示している、それを身業説法と言う、という話を聞いたことがある。これに近いものを感じるのだ。世界の旋律、調和、バランス、愛、美しさ、そして真実。このようなものを知った人たちは何か創造的に脱け出ている。私もそんな表現者に(それは日々の生活というものを生きるということ)なりたいと思った。

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