頭の良さとは何か#知能学1

知能学とは、知能と認知機能について研究する学問である。

人間の頭の良さや賢さは、単一の指標で測ることは難しい。

知能学では、人間の頭の良さを総合的に究明する。

また、頭を良くする方法についても研究を進める。

頭の良さとは

「全てにおいて頭が良い」という人は、ほぼ存在しない。頭の良さにもあらゆる種類が存在しており、その全てをカンストしている人間も、全てにおいて秀でている人間も存在せず、人それぞれ得手不得手があるものだ。

例えば、「記憶力が悪い」けど「論理的思考力は高い」という人間も存在する。この場合、その人は「頭の良い面と悪い面がある」ことになる。つまり、一概に頭の良さを判断することなんて、誰にもできないということ。

よく、「お前は頭が悪い」とか「あの人はバカ」と決めつけるような言い方をする人がいるが、それは極めて愚行であり、全くの正当性を成していない。

だって、頭の良さなんて環境や時間によっていくらでも変動するし、睡眠不足になれば誰だって頭は悪くなるだろう。

それに、先程も言ったように頭の良さには様々な種類があるので、「普遍的に頭が良い」「絶対に頭が良い」などという概念自体、そもそも存在しないのだ。

「推理力は高いが記憶力は低い」人間も存在する。この場合、その人の特技は推理力が高いということになり、逆に短所は記憶力が低いことになる。

「頭が悪い」「頭が良い」と一概に決めつけることは、人間には様々な能力があるのに、一概に「この人は全ての能力が低い」「この人は何もかもダメな人間である」と決めつけていると同等の行為になる。

日本人、特に頭の悪い人は、成果や一部分(具体)を少し見ただけで全体の評価(頭が良いか悪いか)を下しがちだ。これは具体から抽象を決めつけているのと同じこと。このように何でも一括りにすることを画一的思考ともいう。

頭の良さの定義なんて、人によって違う。それに評価というものは、時と場合によっていくらでも変わる。

例えば、他人をすぐバカにして見下す人は、他人の良い面を見ず、悪い面ばかりをとらえる傾向がある。では、この場合バカにされている側の人間は能力が低いことになるのか?

それは違う。この場合、評価する側が一方的で主観的な評価をしているだけに過ぎない。いわゆる「批判」というやつだ。

ノイマンは死ぬほど頭が良く、火星人と言われるほどの頭脳を持っているが、身近にある食器の配置や人の顔などは全然覚えられなかったという。

では、ノイマンは頭が悪いのか?そんなわけはないだろう。ここでひとつ言っておくと、誰かに「頭が悪い」と言われたなら、それは言い換えると「愚かな行動や劣った成果を出したね」という意味になる。

だからそれは頭が悪いという意味ではなく、あくまでその時点での評価になる。テストの成績がいつも100点の人が、1回だけ0点を取ってしまったなら、その人は頭が悪いことにはならない。それは単に、「その時の成果が低かった」というだけの話。つまり調子が悪かっただけ。

ここでまとめると、ひとつは「頭の良さは主観的である」こと。ふたつは「頭が良い悪いという言葉は、その人の現状や評価を端的に表現するための単語に過ぎない」ということ。

「頭が良い」「頭が悪い」「賢い」「頭が切れる」などという単語は、成果を端的に表現するためには実に便利な言葉だが、これらの単語を盲信するのは間違っていると言える。

論理的思考力は高いのに記憶力は低い場合、それは人によって頭の良さの基準が違うため、評価が矛盾してしまう。

例えば「論理的思考ができるひとが頭が良い人」という評価基準を持っている人からすると、その人からすると頭が良いとされるが、「記憶力が良い人が頭が良い人」という評価基準を持つ人からすると頭が悪いという評価になってしまう。

この場合、評価は両者の間で対立しており、矛盾が生じることとなる。だが、これはどちらが間違っているなどという次元の話ではなく、どちらも正解で、どちらも間違っているという結論になる。

戦争においても、善悪の基準は国によって違うし、一方から見ると正義でも、他方から見ると悪ということは歴史上多数存在する。

結論:頭の良さという概念は人によって違うので、絶対的な「頭の良さ」という基準はそもそも存在しない。人によって得意不得意はあるので、頭が悪いと言われても、真に受けなくていい。頭が悪いというのはその人の主観であり、そもそも普段から人をバカにしている人間の言うことなんて真に受ける方がバカバカしい。

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