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Y中の思い出 その2

地方の町立中学校Y中。赴任当初は144名だった全校生徒数は次第に減少し、ついに86名。当面は増加の見通しもなく、2023年度をもって閉校となりました。私は国語科非常勤講師として勤続13年間(非常勤だから)、我が家の小学校5年生だった上の子は社会人、小学校1年生だった下の子は大学生。40代から50代半ばにさしかかり、女性の人生の繁忙期ともいえる時期を、私の経歴上唯一のいわゆる「落ち着いた学校」と呼ばれた、この学校を職場として過ごすことができたのは、心から幸運だったと言えるでしょう。今後は小中一貫校として新しい学校に生まれ変わる…というタイミングで、私は転勤することに。
 在りし日のY中に感謝を込めて、思い出を綴ってみようと思います。
 なお、思いつくままに書き散らすことになると思いますので、時系列はおろかテーマも散らかったものになりますが、「本当に実在した学校なのか?」と不思議な気分のままで結構です。ぜひお付き合いください。

山の上の50mプール

教員や保護者、その他の方々は車で5分。自転車通学の生徒用に、自転車置き場からの徒歩ルートは前回「その1」で述べた通りの立地条件のもと‥なぜかY中のプールは50メートルサイズであった。

 かつて昭和の時代には某産業が盛んな町であり、人口も今の何十倍か‥。大きなプールが溢れんばかりの歓声に包まれた日々もあったはず。

数年前までは毎年、夏休みの初め頃に周辺地域の小学校約80校の代表が500人以上集まる水泳大会が盛大に行われていた。

にぎやかな大会の様子

Y中までの道のりは、以前シリーズ1にしたためた通り、車で山道を約5分間登らなければならない。しかも、その道の幅は所によって非常に狭く、対向車をかわすのも容易ではない。近隣の小学生代表の保護者がやってくるので、日頃はこの山で目にすることがないような長蛇の車列が出来上がる。

よって、その水泳大会の日はY中を拠点に一方通行となり、大会運営の小学校の先生方は炎天下、交通整理の任務にあたっていらっしゃった。
そして、私たち非常勤も「Y中職員」と大きく書かれた札をダッシュボードに置き、9時や10時の中途半端な時間でも優先的に通してもらい、出勤することができた。

あれから数年…

次第に生徒数は減少し、体育のT先生は「プールを半分埋めたい」とこぼしていた。

閉校間際には各学年とも30人弱の1クラス。
体育の教員も減って、どれほど女の子が文句を言おうが、やむを得ず体育の授業は男女混合となった。
プール掃除は人手も少なく、それは大変だったらしい。
授業の様子を垣間見たところ、広いプールの片隅で、あっちでパシャパシャこっちでパシャパシャ、こじんまりと水飛沫が跳ねていた。

閉校となった今、50メートルプールの行く末はいかに…。


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