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悪文に会うのって実は難しい?という話

日々の中で自分の感じたこと、考えたことを
文章化する訓練をしたいと思ってnoteの投稿を始めようと思った。

というのは久々にちょっと困惑するような
『悪文』に出会って、衝撃を受けたからだ。


文意の伝わる言葉を編むのは、
生きてきた年齢や経歴、学歴とは全く別の能力なのだろうか?

長い間文章なんて誰でも描けるものだと思っていた。
でも実はちゃんとした文章、読みやすい文章を書けるって
結構貴重なスキルなのかもしれない。

自分の思いを散文的にまくしたてて伝えるのと、
相手のことを考えてちゃんと伝わるように
文章を構成することって明らかに別だ。

件の悪文を読んで「うわぁ…」という気持ちになったが、
同時に自分も全然出来てないな、と反省した。


私は抽象的思考や難解な表現、長文を読むことが苦手なので、
読書は好きだけど同時にストレスでもあったりする。

なので本を読む時は自分の読解レベルにあった良書しかそもそも読まない。
当たり前すぎて気づかなかったが、普段読んでる文章の中で『悪文』と遭遇することが自分の人生では極端に少なかった。


書籍化されてるということは商業価値があるわけだし、
Webでクリックしたくなる文章がキレイなのも当たり前。

情報化社会では一定の基準を満たさない悪文はそもそも目に入らないか、
すぐにブラウザバックされるから最後まで読んですらもらえない。

『読書』が苦手ゆえに『読書体験』のコスパを最適化して快適さを追求した。 良書、良文しか読まない。時間を使いたくない。

自分で選んでるから当然だがTwitterや各種SNSで
相互フォローの人に悪文書く人は1人もいないから、
こういうことに気づかなかった。

編集や第三者の校正なしに関わらずSNSで価値のある発信が出来るって
全然当たり前のことじゃないけど、TLだと当たり前にみんな出来てるから「文章なんて誰でも書ける」と思ってしまったのかもしれない。

そう考えると文章で何らかの主張や持論を書くのって、
世間一般からするとすごく狭くて特殊な世界なのかも、と思った。


とはいえ他人の書いた悪文ほど良い学びを与えてくれる。
人のふり見て我がふり直せ、という言葉には痛みを伴う実感がある。
だからこそ己の文章の未熟を振り返り、学びのチャンスになりうる。
己が書いた悪文は第三者の目で指摘されなければ自覚できない。
岡目八目なだけで実際にわがふり直すのは中々難しいことだけれど。

失敗は成功への栄養だ。
前に進むための失敗を集めるのは実は近道なのかもしれない。

だが実のところ、
他人が書いた「悪文」から学びを得ようとしても
それなりの読書量がないとそもそも会えもしない…、
というパラドックスが厳然と立ちはだかる。

能率優先では『悪文』には出会えない、という話でした。


*****



といった経験と気付きがあったので自分の考えていることを
文章化する訓練をしたいと思ってnoteの投稿を始めて見た次第だ。

気づけば長年twitterなどの短文SNSに慣れて
1000文字以上の文章を書かなくなって久しい。

未熟ながらも己の悪文乱筆が少しでも伝わりやすい
文章になっていけばいいな、と思ってキーを叩いている。

不定期で散漫な思考を描き散らしていく
ことになるとは思うが千里の道も一歩から。

思考と試行の記録を残せば定点観測ができる。
思考と試行の記録は必ずどこかにたどり着く。

そう信じてもう一度文章を書くことを始めてみる。



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