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【連載小説】『晴子』26

 電話がかかってきたのは夜の10時半頃だった。
「もしもし。過ごしやすくなってきたわね。」
 もうこの電話にも怪しむことなく応答するようになっていた。相手が未だ誰なのかは分からないし、声という声はあの女の子のを除いて聞いていないけど、それでも半年以上も続いているのだ。段々、警戒心も薄れていた。
「相変わらず名前も目的も言わないのね。」
 電話の奥は相変わらず無言だ。でも、今日はいつも通り公衆電話からかかってきている。
「ねえ、これは私の勘なんだけど、私たち、何だか仲良くなれそうじゃない?」
 無言の相手に、一方的に話かけることにも慣れた。むしろ、音声以外の情報が遮断されている状態で話すことが意外にも楽しくなりつつあった。
 反応が返ってこない状態で一方的に話すのは、はじめのうちは気味が悪くて、途中から虚しくなって、最近では一転して気楽でさえある。それに、その気楽さが自分の意外性を引き出すこともある。
「あのね、私の恋人の話してもいい?」
 例えば、こんなことだ。自分の恋人について、第三者に積極的に話そうとする自分は、菖蒲ちゃんや店長相手なら絶対に現れない。でも、この無言電話だったら、なぜか無防備に話してみたくなる。電話の相手と実際に会う事は多分ないと確信しているからだろうか。
「私の恋人ね、私の本名を知らないの。彼は私のことを麻美って呼ぶの。彼はこれが本名じゃないことは知ってるけど、本当の名前がどんなのかは知らないの。」
 電話の向こうは、スーという機械的な音と、微かな呼吸が聞こえる。
「何で本名を言ってないかってね。私、自分の名前が好きじゃないの。似合ってないのよ。私の名前、聞く?ていうか、言うね。晴子。晴子っていうの。どう?」
 返答が来ないのは分かっていたけど、問いかけてみた。なぜか沈黙でも返答として十分すぎるように思った。
「もう半年も電話してるから、何となく分かるでしょ。私、全然晴子じゃないでしょ?釣り合ってないでしょ?だから嫌なの。私が晴子だってことが。」
 私の身の上と恋人の話を、相手はどう聞いているのだろう。興味深く聞いているだろうか。この電話は無言でも成り立つとはいえ、やはり反応に困っているだろうか。
「だから、あの人は私の本名を知らないし、今まで一度だって聞いたことがないの。聞かないでいてくれるのよ。優しいでしょ?」
 ここで、電話が切れた。
 しばらく待ってみた。もし向こうが私の話に興味をもったとしたら、かけ直してくるかもしれない。もちろん、興味がない可能性の方が高いが。私はどちらでも構わなかった。
 電話は結局、かかってこなかった。

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