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友情破壊は不況の狼煙 比較は鬱の元 憐れむ心は人知で制御不能 恨みは理解を遠ざける

1、友情破壊
昨日、書いた、スポーツ選手とギャンブル依存症の両者は、どちらも踏み絵を踏まされて、友情を壊す道具に利用される。
ダビデとヨナタンの友情がポジティブに描かれているから、サタン側は友情を毛嫌いする。

友情破壊の狼煙。
友情破壊のデモンストレーション。
友情破壊の象徴。
サタン側は、これから友情を破壊する経済状況を作るのだろう。
実際、不自然な経済政策で経済を破壊する気だ。
ただ、戦争にすると友情を破壊するどころか、友情が強まる可能性の方が高いため、世界大戦にするかどうか怪しくなってくる。
サタン側が、こうやって世界大戦にするか世界恐慌にするか、サタン側の身内に知らせている。
エセ友情を持ち上げるなら、世界大戦を作る。
エセ友情を潰していくなら、世界恐慌を作る。

タダの通訳が万能的な活躍をするなんて、不自然だ。
何でもかんでもサポートできる能力を持っていて、何で通訳になる前は活躍できなかったのだろう。

ちなみに、聖書でギャンブルは禁止ではない。
サタン側の手下の偽装キリスト教団であるカトリックとかが、利権に不都合だから、民間のギャンブルを禁止にするため、ギャンブルをしたら地獄へ落ちると脅している。
一般人がギャンブルにハマって、偽装キリスト教団の言う事に従わなくなって、身勝手な犯罪をして統制が取れなくなるのが不都合なのだろう。
カトリックが裏のギャンブルを経営しているから、ライバルの民間ギャンブルを潰したいのだろう。

ギャンブル依存症も、世間体依存症も大して変わらない。
神に依存すれば、神以外の依存症に支配されなくて済む。
神以外に依存しているなら、ギャンブルだろうが何だろうが同じ。

通訳は本当にギャンブル依存症か怪しいモノである。
そういうシナリオで友情破壊のストーリーを作っているのではないか。
友情はギャンブルで潰せるとして、友情を貶める。
または、保身のために、友人やコンビが苦境でも他人事で切り捨てるとか。

野球は八百長しやすいスポーツである。サッカーもそうだけど。
審判や駆け引きが存在するスポーツは、基本的に八百長しやすい。
流鏑馬みたいなのは八百長やドーピングのしようがないけど。

無害なドーピングはあるかもしれない。医学はサタン側の支配下だからだ。

2、清さ
人間の勝手な「清さ定義」で清さを守っても意味がない。
神が決めた「清さ定義」を守る必要がある。
神の清さ定義は、聖書に書かれている。
神の掟を守れば清くなる。

3、揺さぶりと精神病
極端から極端へ価値観を揺さぶるのがサタン側の手口だ。
価値観という人間の根幹を何度も揺さぶられるから、精神病になるのは当たり前である。
神に立ち帰れば、価値観を揺さぶられる事がないから、心が休まる。
神を信じたら、サタンから守ってくれる。

だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。

ヤコブの手紙 4章7節 新共同訳

4、私物化と精神病
何かを私物化すると精神病になりやすい。
その私物を守ろうとして、ストレスになるからだ。
また、同じものを私物化した他の人と競争したり比較するから、さらに精神病になる。
生まれ付きの才能を私物化すると、特に精神病になりやすい。
まともな人間に才能を管理してもらうとか、運命共同体に近い父親に管理してもらうとかしたらら、精神病になりにくい。

聖書では父親が結婚相手を決めるのは、性格は父から遺伝しやすいから、父親同士で気の合う相手なら子供同士も気が合うから幸せになりやすい。
自分で結婚相手を決めると、自分で選んだから文句が言えない。父親が決めれば、不満があれば、互いの父親に言えば良いだけ。
文句を誰にも言えない人生と、文句を二人の父親に言える人生では、どちらの方がストレスが少ないだろうか。
自分で選んで不満の愚痴に付き合わされる友人は、堪ったモノではない。
孤児なら自分で選んでも文句を言ってもいいけど、孤児の特権みたいなものだ。
父親は父親で、神に対して責任を依り頼めば良いから気楽なモノだ。聖書には、良い夫、良い妻のモデルがいくつか描写されているから、自分と相手の子供がそれに該当するか当てはめればいい。
聖書に書いてある通りに、自分の子供と相手の子供を判断して、それでも上手くいかなければ、自分の責任ではない。そういう運命であり、神の試練だと割り切ってしまえばいい。

出産能力を私物化すると鬱になりやすい。
同じ才能を持っている者同士で比べる人生は、精神を病みやすい。
才能を神のために使うなら、病まない。
才能の私物化は、その才能を上手く利用しないといけない強迫観念にさいなまれて、常に悩み続ける人生になる。
他人とも競争する事になる。
同じ才能を持った者同士で才能を有効活用できたか、常に比較される人生になる。
兄弟姉妹で比べるとうつ病になりやすいと言うから、出産能力も比較される人生になるとうつ病になりやすいのだろうか。
良い男と結婚できるか、子供は優秀に育つか、そういうのを常に比較されてしまう。
神を信じれば、聖書に基づいて男と判断して子供を育てるから、それで問題が起きても、神が何らかの計画をしているのだと割り切れる。
神の信者なら、神の事だけを考えて、他人なんかと自分を比べない。

出産能力を持つ者同士で比べさせるのは、うつ病にして、出産制限するためである。国家というのは、ある程度、成熟すると産児制限をする。
色んな方法で人口抑制する。その内の一つが、出産能力を持つ者同士で比べさせる方法である。

お婆さんにうつ病の人があまりいないのは、出産能力のある者同士で比べなくなるからだろう。
他人と比べなくなるから、精神的に楽になる。

5、比較と憐れみ
神の信者なら、他人が金持ちでも「コイツ神に立ち帰っていないから幸せではない」と確信できるから、うらやましい感情が涌かない。
どうやれば、非信者を神に立ち帰らせて幸せにできるか、という事ばかり考える。
このままだと、その他人は100%地獄へ落ちて、焼かれ続けるか、魂を消されるため、憐れみさえ覚える。
しかし、背教者を憐れんではならないと神は言う。

申命記 7:2 (新共同訳)
あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。
申命記 7:16 (新共同訳)
あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことごとく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない。彼らの神に仕えてはならない。それはあなたを捕らえる罠となる。
申命記 19:13 (新共同訳)
彼に憐れみをかけてはならない。罪なき者の血を流した罪をイスラエルから除き去れば、あなたは幸いを得る。
申命記 19:21 (新共同訳)
あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。
申命記 25:12 (新共同訳)
その手は切り落とされねばならない。憐れみをかけてはならない。

非信者や背教者を憐れんではならない。
俺は未だに、憐みの感情が出るぐらい神の道から外れかけるから、努力しても、なかなか心が定まらない。
非信者を憐れむと、優しくしてほしくて非信者のままで居続けようとする人が出てくるから、憐れんではならないと神は言っている。
多分、憐れという感情は、比較に基づくモノだから、憐れむと不幸になるため、神は憐れんではならないと諭してくれているのだろう。
神なら憐みの比較の感情に振り回されないから、憐れみ深い神として振る舞う事ができる。人間にそんな能力はないから、憐れんではならない。
「あわれ」で検索すると、神が人を憐れむ描写ばかり出てくる。
「あわれ」を探す - 聖書検索(口語訳) (kirisuto.info)
神が人間を憐れむか憐れまないか、という描写は何百と出てくる。
しかし、神は人間に対して、背教者を憐れんではならないと言う。
人間には、憐みの感情をコントロールする能力がないのだろう。

ただし、次のような言葉がある。

旧約聖書:出エジプト記:33章:19節
主は言われた、「わたしはわたしのもろもろの善をあなたの前に通らせ、主の名をあなたの前にのべるであろう。わたしは恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむ」。

「もろもろの善をあなたの前に通らせ」とある。
神の目を考えて憐れむ場合は、良い事に繋がるのだろう。
神の目を考えないで、自分の考えで憐れむのがダメなのだろう。
神の目を考えて憐れもうとする者を憐れむ。
神の目を考えて憐れむ場合は、多分、天国へ入れるように神の教えを説教する事だろう。人間が考える譲歩は憐みではない。

6、流行語
犯罪芸人と犯罪事務所では、どちらが悪いだろうか。
才能の無い人間を持ち上げるのは、犯罪を唆すのと同じだから、犯罪事務所が何千倍も悪い。
実行犯よりも教唆犯の方が何千倍も悪い。
ましてや、実行犯よりも助長犯の方が悪い。
助長犯が居なければ、実行犯は犯罪できないし、犯罪しても直ぐ逮捕されるからだ。

犯罪芸人は、流行語を本当に自分で考えたのだろうか。
何か、文作家が考えたような言葉が多いから、構成作家が考えたネタをやっているだけ。
犯罪芸人みたいに勉強が嫌いな人間は、この単語とこの概念を結び付けるだろうか、と思うような流行語がある。

7、肩書
前に書いたけど追加。
追加の部分は、信念の無い国家主義者は肩書でしか物事を理解できないから敵と味方を区別できない、というところ。
神の信者なら、人種、民族に関係なく、神の信者が味方で、非信者が敵である。まあ、非信者も信者候補かも知れないから、一定の配慮はする。

同胞の非信者に囲まれているのだから、外国人の非信者が移民してきても、結局は同じである。
同胞でも悪人が存在するのに、同胞という理由で安心する無防備。
本質的には日本人も外国人も非信者は悪人なのに、肩書が違うだけで善人と錯覚して無防備になる。
肩書でしか判断できないから、妙な液体の予防接種でも、肩書が医者の悪人に騙されて薬害に遭う。
被害に遭うべくして遭う。
善人と悪人の区別が付かないから被害に遭う。

8、顔出し
本人が顔出して出てきても、本人が洗脳されて騙されている危険性があるから、表に出てきたからといって信用するのは危険である。
肩書で信用しなくても、相手が顔を出したら妄信する無警戒な人間は多い。
肩書を鵜呑みにしない自分に酔って、肩書以外を鵜呑みにする愚かな選択をする。無理やり肩書以外を鵜呑みにするように決め打ちする。
そもそも、天の主以外に信用に値する存在はない。
神の信者なら信用に値する。

9、逆恨み
訴訟乱発していて女を逆恨みする動画発信者に対して、寄付をしている連中は、どうやったらそんな金を持てるのだろう。
結婚していたら、その十分の一でも使ったら配偶者はブチ切れる。
子供のために使わないで、そんな事に使うと結婚相手は怒る。
結婚していないのか。
金を稼げても、女を逆恨みするから結婚できない。
そういう似たような人間が集まる。
鉄砲玉に仕立て上げるために煽てているだけかもしれないけど。

前にも書いたけど、女にしてみたら、稼いだ金を子供のために使わないなら、何億円を稼げてもギャンブル依存症と同じカテゴリーに分類されるため、結婚できない。

俺は女の事をあまり知らないから、女に関してアレコレ言えない。
さっき書いた、出産能力のある者同士で比較して人生が苦しくなる、という比較の観点から語る事はできる。しかし、女そのものについて語るのは難しい。

憧れは理解から遠い感情という話が有る。
逆恨みも理解から遠い感情なのだろう。
憧れて裏切られるから逆恨みするのだから、憧れと逆恨みは似たようなモノだろう。
だから、神は、復讐してはならない、恨んではならない、憎んではならない、と言うのだろう。

心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。
復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

レビ記 19章17節18節 新共同訳

逆恨みは、復讐しているし、恨んでいるし、憎んでいるから、理解から遠ざかる。

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