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「どこかで救えた命」をどこで救うのか

先日、子供の虐待死について書いて2日と経たずまた、子供が虐待で亡くなったというニュースが報じられています。

青森・八戸の5歳女児虐待死

1月の青森、冷水を浴びせられてそのまま放置。
どれだけ寒く冷たかったでしょう。
薄れ行く意識の中でこの子は、何を思っていたでしょう。
それを考えると悔しさや歯痒さ、力不足など様々に複雑な想いが浮かんで来ます。

今回のケースでも児相は介入していたようですが、最終的にこのような結末を迎えてしまいました。
TVでコメンテーターなどは「どこかで救えた命」という言葉をよく使いますが、その「どこか」はどこなんでしょう?

病院で虐待の疑いがあると通報したり、或いは近所から同じく警察などへ通報があったりするようになったのは一歩前進です。
そう考えるとやっぱり児相が介入した時点でもっと突っ込んだ調査なりをすることがその「どこか」になるんだろうと思います。

そうすると必ず「人が足りない」という問題が言われます。
確かにそうなんでしょう。
けれど「人が足りない」という理由だけで子供の命が守れない事には、どうしても違和感を感じてしまいます。

現場の方々は本当に大変な想いをしているんだろうと思いますし、一つ一つの事案に真摯に向き合っていると思います。
一方でその想いや使命感が強ければ強いほど、このように介入したにも関わらず子供の命が絶たれてしまうと、もっと何か出来たのではないか、と思い悩む職員さんも居るのではと想像します。
そのプレッシャーから仕事を辞めてしまう方もいると聞きます。
それが結果的に慢性的な人手不足になっているのではないか、と考えてしまいます。

それでも、子供を虐待から救うにはその「どこか」をしっかり機能させることが必要と考えます。
そのためには警察との連携をさらに深めるとか、一時保護施設を拡充する、さらに民間のチカラも利用するなど、幅広く使えるモノは何でも使う。
またいつも伝える通り、子供だけでなく親へのアプローチをしっかりと行なっていく。
他にももっと出来ることはあるのだろうと思いますが、とにかく出来ることを出来る限りしていくことで子供の虐待死を減らすことが何より大切だと思います。

他人事ではなく自分事として捉えて、関心を持っていくことが私たちに出来る最初の一歩だと思って、今後もこのような発信をしていこうと思います。



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