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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[001] 第1章 西の海を渡る       

                          安達智彦 著 

【この章の主な登場人物】
ナオト ∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 日本列島の北のヒダカ、陸奥湾西岸で生まれ育った青年。日本海を渡ってフヨ国に至り、匈奴国を目指す
カジカ ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ ナオトとともにヒダカの善知鳥の浜の青年
ハル ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ ナオトの幼馴染み。ヒダカの娘
カエデ ∙∙∙∙∙∙∙∙ ナオトと五つ違いの姉。ツガルの十三湊で舟長のカケルと暮らす
∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 夫亡き後、カエデとナオトの二人を育てた母
オシト ∙∙∙∙∙∙∙∙∙ 漁に出たまま戻らなかったナオトの父。象潟生まれ
カケル ∙∙∙∙∙∙∙∙∙ カエデと暮らす象潟生まれの舟長。大陸と交易している
シタゴウ ∙∙∙∙ 幼い頃にカケルと知り合い、丸木舟で北の島のなお北にあるという大地をともに目指した友
タケ兄 ∙∙∙∙∙∙∙∙ 外海に出るカケルが頼りにしている舟乗り。岩木山の麓の生まれ
トキ爺 ∙∙∙∙∙∙∙∙∙∙ カケルの舟で食事の用意を任されている年長の舟乗り

「第1章 西の海を渡る」のあらすじ
 日本列島の北がまだヒダカと呼ばれていた頃、西暦でいえば紀元前92年、善知鳥うとうの海――いまの青森県陸奥むつ湾――の西岸にナオトという青年が母と二人で住んでいた。近くには一緒に育ったカジカがいて、また、幼馴染みのハルという娘の家がある。
 ひい爺さんが大切にしていたという、遠い昔から伝わるほのおが昇り立つような形をした土器が震えるほどに好きで、ムラの内では、土器を焼く仕事を選んで就いている。周辺の里でナオトは、真似のできないいい器を作る若者として知られていた。
 初夏のある日、ナオトは西の山を越えたツガルに広がる十三湖とさのうみ近くのみなとに姉のカエデを訪ねた。
 姉がともに暮らす義理の兄カケルは、双胴の舟カタマランを操って日本海――ヒダカの海――を渡り、大陸むこうのおかと交易している。この頃は、ヒダカのコメと交換に鉄を手に入れることが多い。
 その舟でナオトは海を越えることになった。海に出ればきっと使うからとカケルが、大陸のフヨという国のはがねだと言って小刀をくれた。それまで木や角や石でできた道具しか見たことのないナオトにとって、初めて手にする鉄製の利器だった。
 以後、ナオトは、その小刀をいつも手元に置くようになる。
 カケルは、いつかヒダカで鉄を作るという夢を持っている。
 十三湊とさみなとを発つ前に、義理の弟を連れて岩木山の麓まで、昔、鉄を作っていたと言い伝えられている鬼の棲み処を探しに出た。丈の高い草をかき分けて進んだ先が開けており、その灰色に汚れた地面の脇を流れる小川には黒ずんだ根を持つ水草が生えていた。       【以上、第1章のあらすじ】

第1章  西の海を渡る
第1節 善知鳥うとうの海
 日本列島の北がまだヒダカと呼ばれていた、いまから二千百年ほど前。
 西暦でいえば紀元前92年、善知鳥うとうの海――いまの青森県陸奥むつ湾――の西岸にナオトという青年が母と二人で住んでいた。近くには一緒に育ったカジカがいて、幼馴染みのハルという娘の家がある。

[001] ■1話 海辺の里                 【BC92年5月】
 もうすぐ南寄りの風が吹いて、芽吹いたばかりの若葉を揺らすかという時季に、突然、寒さの戻ることがある。そんな日には、善知鳥の浅瀬にセグロイワシの群が狂ったように押し寄せる。
 浜の物見ものみが沖でミャーオ、ミャーオと騒ぐウミネコを見つけ、激しく音木おとぎを打ち鳴らして知らせると、「セグロだ」「セグロだ」と口々に叫びながら、ざるササの束を持った人たちが浜に集まってくる。
 その音木の甲高い音が届くか届かないかというところ、海を背に西の丘に続く山道を少し上った辺りに、ナオトは母と二人で暮らしている。
 竹と丸木とカヤと杉の皮を組み合わせて建てた家は丸い形をしており、中はいつも暗いが、冬の寒さを防いでくれる。杉の皮で厚くいて土を置いた屋根の横手には、明かりを取り、煙を逃がす三角の穴が左右に一つずつ開いていて、寒いときにはつっかえ棒を外して閉じる。
 ヒダカの国の北の外れ、およそ三百人が暮らす村で、今年、二十歳になるナオトはいい土のうつわを作る若者として認められていた。昔、爺さんの、そのまた爺さんが大切にしていたという縄目の模様を付けた、上に向けて広がっている器が震えるほど好きで、村にあるいろいろな仕事のうちから「どうしても」と敢えて口にして、専ら器を作る道を選んだ。

 ナオトは、たいていの仕事を家の戸口の横に設けた土間どまでこなす。その土間に、日が射すようにと南から北へと片流れに屋根を掛け、並べた杉皮すぎかわを支えの横竹に麻縄あさなわで留めて風と寒さを防いでいる。
 大きな若い男が体を折り曲げて粘土をねる姿は珍しいらしく、ナオトは、浜の若い女たちが海産物の商いに訪れるときなどに、仕事場の外をくすくすと笑いながら通り過ぎる気配を背中に感じたことが一度ならずある。
 もっとも、たとえナオトが土器を専門に作りたいと望んだとしても、北ヒダカの地で土器だけを作って生きていくというわけにはいかない。第一に、土器作りに欠かせない炭焼きがある。
 器は、昔は薪を焚いて野焼きしていたというが、近頃は木炭すみを使う。炭は、寒さがひどい年には里の家々の囲炉裏で薪に添えて秋口から使いはじめ、他に、病人が出たときや村の寄り合いでも使う。だからこれも、ナオトに任された大事な仕事だ。
 炭焼き窯に平らな石を使うことがある。そこでナオトは、冬、大きな石をそりに載せて西の山からみなで曳いてくるときに手伝う。舟や漁で使うおもりも石で作る。栗の木を刳り抜いてうすを作ることもある。そうした細かいけれど力がいる手仕事は、昔から、ナオトの家の近くに住むカジカの父がやるという決まりになっていて、カジカとナオトがいつもそれに手を貸す。
 さすがに、漆塗りを手伝えとは言われないが、村での暮らしにはいろいろとやることが多い。

 秋の収穫期には、みなで栗拾いやキノコ狩りをする。西山を越えて岩木川沿いの鶴池つるいけまで行き、稲の穂摘みや積み出しを泊り掛けで手伝う者もある。
 ホタテやハマグリがうまくなる春の終わりから夏にかけては、村の男や女ばかりか、子等まで総出で、貝採りに出る。洗った後の貝は川水に浸けておいて、開いたところを竹のヘラでほじって浜に干し掛ける。ナオトはそれもやる。
 少なくとも年に一度、夏の初めにきっと行われるこうした村の共同作業を、若い女たちは、初夏なつの浜祭りと呼んでいるらしい。若い男たちは、ひそかに、貝採りとは別の名前で呼んでいる。

 浜仕事にはいつと時季が決まっていないものも多い。
 大きな嵐が去ったあとは、みなが浜に集まって、流れ着いた木や海のを拾う。ナオトたちが住む里のすぐ近くまで延びる入り江の浜に、こんなに人がいたのかと驚くほど大勢おおぜいが集まる。口の悪いカジカは「腰の曲がったあばも、このときだけは腰が伸びる」などと言って笑う。
 流木は、長いものは家や小屋の柱にしたり支えたりするのに使う。大きなものは器や道具の材料にし、小さなものはまきにする。
 拾い集めた海藻は、そのままみなの口に入ることも稀にあるが、多くは乾かすか、壺に入れた塩水にひたしておいて汁の味付けに使う。藻塩もしおを作るときにも使う。
 藻塩は、海水に浸した藻を天日で乾かし、白く残った塩を壺に入れた海の水で溶く。これを繰り返し、最後には壺の塩水を煮詰めて作る。
 口にするものの味付けに使う藻塩は、日々の暮らしに欠かせない。土鍋で煮る汁にも入れる。塩辛のように、海の物を塩漬けにして取り置くときにも使う。

 ニシンの大群やサメ、鯨魚イサナ――クジラ――がやってきたときには、みなと近くの村々を挙げて浜に出る。あるいは、舟で漕ぎ出す。みなであみを曳くこともある。
 舟に乗って鯨魚を網に追い込む役は勇壮で、男たちはみなこれを望む。力が人一倍強いナオトも、言えば乗せてもらえるのだろうが、どうも自分には向かないと、一度も名乗り出たことがない。

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第1章の目次 【各節の初めへ移動するためのリンク】
 第1章1節 善知鳥うとうの海 [001] の冒頭へ
 第1章2節 突然の旅立ち [004] へ
 第1章3節 カケル [007] へ
 第1章4節 三つの海境うみざかい [009] へ
 第1章5節 双胴の舟 [013] へ
 第1章6節 岩木山の鬼 [017] へ
 第1章7節 船出 [020] へ

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