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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[020]十三湊を発つ

第1章 西の海を渡る 
第7節 船出

[020] ■1話 十三湊とさみなとを発つ         【紀元前92年5月下旬】
 舟を出す、出さないを、カケルは星、日、雲、波、しおなどを目安に決める。外海そとうみがうねり、水戸の砂洲を越えて波が寄せてくるようなときには、どれほど日が照っていようともカケルは決して舟を出さない。
 浜の者たちは、鳥や蝉の鳴く声を聴いて、雨は上がると知る。それと同じようにしてカケルは、十三湖の水戸口に寄せる波、外海そとうみのうねり、潮の流れとその色、雲の形や高さと動き、それに日の周りの輝きと星のまたたきを見て、このあと十日間、海の上で大風に会うことがないかどうかを読もうとする。その読みの良し悪しに、舟子の命が掛かっている。
 いつもは肝の据わったカケルが気難しいほどになった。強い風が吹き、やがてそれも去って、海のうねりがおさまった。
 野の花が散り、ナオトが、
 ――夏も遠くないな……、
 と思ったその日、「次の朝に」と、カケルが舟子を浜に呼び寄せた。

 ナオトが十三湊とさみなとの姉のもとを訪ねてから十日目の早朝。
 日が昇る前の薄暗がりの中で家を出るとき、弟にはもう会えないかもしれないとどこかで感じ取ったか、カエデが声を上げずに涙していた。じっと見た後で、姉に向かって小さく頭を下げたナオトは、後ろを振り向くことなく義兄あにの大きな背中を追った。
 浜が近くなると、そこここから威勢のいい声が聞こえてきた。十三湊にあふれる活気は、善知鳥うとうの浜とは少し違っているとナオトは思った。明るくはあるが、しかし、どこか覚悟を決めた男たちの張り詰めた気持ちが見え隠れしている。
 ――大陸むこうに渡るのはそれほどに危ういのだ……。

 このかんに一度、ナオトは善知鳥の里まで駆け戻った。母に、大陸むこうのおかに行くと伝えておきたかった。
「カエデのところに戻る」
 朝、そう告げて家を出るとき、母は止めなかった。ナオトがこうと決めたら、何を言っても無駄だ。母はそれをよく知っていた。じっと目を見て一言、
「気を付けてなぁ……」
 と言った。
 ハルの家の方にちらっと目をって、坂を下った。坂下で北に折れて走り、善知鳥の浜を背に十三湖へと続く坂道を速足で上りはじめたときに母の顔を思い出して、ナオトは言いようのない気持ちになり、「ありがとう」とつぶやいた。

 海を越えて運ぶ荷物はあらかた舟に積み終えた。ナオトも手伝った。
 カケルの合図を待ってタケ兄が舟に上り、浜に集めた荷を二艘の舟をつないだゆかに積み上げていった。腰に下げた薄い竹の板に書き付けた印を見ながら、カケルがいちいち声を上げて、有るか無いかと確かめる。荷の山は、初めて見る者が「こんなに載るのか」と驚くほどになった。
 次に、麻布で覆った。さらに、荷がずり落ちないようにと、細い麻綱で作ったあみを上からかぶせ、太綱できつく締める。舟子たちはこれを「荷にとまを着せる」などと言っている。荷は、最後には、舟の中ほどにある小屋を間に挟んで四つの山になった。
 荷を積み上げた床は、大きめに切り取った桜と檜の皮を敷き詰めて麻布で覆い、にかわで固めて、荷の下が波で洗われることのないようにしてある。その周りには竹で編んだかきを立てて、波がじかに当たるのを防いでいる。
 小屋には、風と波に持っていかれることのないように、とくに大事な荷を置く。
 舟子たちを飛沫から守り、寒さ除けにもなる人数分の犬の毛皮を人数分だけ棚に積み、紐で結んである。これがあったので、あのとき、北の島の冬を生き延びられたとカケルは信じている。
 海の上での食糧と木炭すみ、どうしても届けるようにと大事な荷主から頼まれている竹籠タケかご、舟子たちの身の回りのものもしっかりと網をかけて置いてある。
 積み荷のうちで変わったものに、鳥籠がある。小屋の内に渡した竿に下げ、その中の小枝にハトが二羽止まっている。えさを与えられて腹がくちたか、身じろぎもしない。
 ナオトがタケ兄に尋ねると、
「方角を見失い、いよいよというときにはカケルが空に向けて放ち、漕ぎ進むべきかたを決める」
 と教えてくれた。目指す島や陸地がどうしても見つからないときにハトを放つと、島があれば島に、生まれ育った陸地があればそちらに、ハトは羽音を響かせながら飛んで行くのだという。
 ――そうか。いよいよというとき、か……。
 舟子の持ち物は少ない。その中で、からだとはいっても、善知鳥の家からかついできたナオトの背負子しょいこは目立って大きかった。
 麻の袋を六か所でくくって背負子に留め、その中にわずかな身の回りのものを入れている。カバの皮に竹炭で書き付けた数枚の器の絵、ウスと呼んでいる火切りに使う木の受けと棒が一組、顔をぬぐったり頭をおおったりする薄い麻布二枚と長めの麻紐あさひもが二本。
 んで乾かしたチドメ草やドクダミなどの薬草と干した熊の胆くまのいのかけらを笹の葉で巻いて入れた小袋。あの日、母がどうしても持って行けと渡してくれたものだ。
 前に父が使っていたヒョウタンに薄くうるしを塗った北ヒダカでは珍しい水呑みづのみ――水筒――。カケルからもらったばかりのフヨの小刀こがたな、それと、海の上で使えと渡された油が塗ってある大きな麻布。
 ――この布には、体中に塗っておけとカケルから言われたイサナの油がひたしてあるという。雨が降り、風が出て寒いときには体に巻いて、犬の毛皮を被れと言われたけれど、それでしのげるものなのだろうか……?

 浜には、遅れて着いたカエデにじって、やはり善知鳥の里から嫁いで来ている顔見知りのタエがいた。十三湊に来ていると聞いていたナオトを見つけ、近くに寄って来た。
「ナオト、久しぶり。ずいぶんと大きくなったねぇ。あんたも大陸むこうに行くの?」
 無遠慮ぶえんりょに聞いてきたので、「ああ」と素っ気なく応えると、すぐに「何しに?」と返してくる。
 ――そうだ、れは何をしに大陸に行くのだ……?
 ただ、一度見てみたいというそれだけのことだった。海があり、義兄のカケルがいるので渡ることができる。だから行ってみる。しかし、渡りたいから渡るとか、おのれのやりたいことを探しに行くとか答えるのは、何か、心に引っ掛かる。そこで咄嗟とっさに口にした。
うつわを探しに行く」
 怪訝けげんそうな顔をして、タエがすぐに訊き返した。
「器って、どんな器よ?」
波頭なみがしらのような形をした土の器だ」
 口から出るにまかせた言葉でもあり、本心でもあった。本当のところはどうなのか、ナオトにもわからない。しかし、これ以後ナオトは、「何をしに大陸に来た」と訊かれるといつも決まって同じ答えを返した。

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