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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[017]ナオト、カケルと会う

第1章 西の海を渡る 
第6節 岩木山の鬼

[017] ■1話 ナオト、カケルと会う
 ナオトが善知鳥うとうの里を発ち、十三湊とさみなとで姉に再会した日の暮れ近く。
 深浦の先の岬を回って南に進んだナオトは、高台に立ち、夕日が水平線に沈むのを見届けた。
 途中の岩場で立ち止まって海の方に目をると、ちょうど、二そうの丸木舟を横に並べてつないだように見える舟が沖合いからゆっくりと深浦の入り江に向かっていた。夕闇が迫る中、前後に二つ上げた帆を下ろそうとしている。善知鳥では見ることのない大きな舟だった。
 ――舟だ。十三湊から来たのだろうか。それとも、西のおかからの帰りか……?
 額に手をかざして、西の海に残る陽光ひかりを頼りに、別の舟はないかと大陸むこうの方角をいま一度望む。目を南に転じて野代の方角を見た後で、波音に導かれて小道を降りて行った。まだ虫はいない。ナオトは一晩過ごす岩陰を探した。

 翌朝。日の出間近まぢかに目覚めて磯まで下りたナオトは、小さな流れを見つけて顔を洗い、口を漱いで、ゆっくりと十三湊に戻りはじめた。岩を打つ波の音が、ミャーミャーというウミネコの鳴き声とじって耳に届く。
 十三湖とさのうみの南の岸は、荷車にぐるまを引いてようやく通れるほどの道になっている。善知鳥の里から麻の小袋に入れて首に下げてきた干し魚をかじり、近くの浜や家々を見回しながら歩くうちに、うっすらと汗ばんできた。
 ところどころに鋭いかどを見せている埋もれた岩を避けながら、足を速める。右手のこずえの上にはそびえ立つ岩木山いわきのやまのてっぺんが見えている。ナオトは、思わず走り出した。
 ナオトの脚は里で一番と言われるほどに速い。昇る朝日と競うようにして駆ける姿を、浜人が珍しそうに振り返った。
 父が亡くなった海の沖まで出てみようとは、これまで考えたことがなかった。しかし、その父が三十年前に近くを通ったはずの深浦まで来てみて、ナオトは考えを変えた。
 ――西の海の向こうの大陸おか。いつかは行ってみたい。いや、きっと行く……。
 十三湖の東の岸まで戻り、コメの道を北を指して走る間、ずっとそう考えていた。そして、おのれの気持ちが一晩で変わったことに驚いた。
 ――今日中に戻れればいいが……、
 と思っていたのに、十三湊に帰り着いたとき、日の入りまではまだだいぶ間があった。義兄あにのカケルは前の日に十三湊に戻っていた。今日は一日、積み荷を降ろした後の舟を浜に揚げて、舟子と一緒に洗っているという。
「ほんとに、心配させて……」
 こぼす姉にすまないと思い、仕方なくナオトは、そのあと、語り通しの姉に耳を傾けた。長い話をまとめれば、いろいろとつらいこともあるが、カケルがいるから安心だということだった。
「カエデ姉、よかったな」
 ナオトは心底そう思い、応えた。

 話が一区切りしたところにカケルが戻ってきた。
 舟を磨く作業のためか、浜には裸足で行ったらしい。カケルは善知鳥の浜人と同じような装いをしていた。ただ、上のころもを留めた紐は、細く切った何かの革を編んだ、これまでに見たことのないものだった。丸めて結った髪を布で覆っていなければ舟長だとは気付かない。
 ――なぜか大きな男と思い込んでいたけれど、背は吾れよりも少し低い……。
 衣の合わせからのぞく分厚い胸が日に焼けて光っている。目の力が強く、立って挨拶あいさつを交わした後、じっとナオトを見つめている。ナオトも同じように黙りこくってカケルの挙措ようすを見ていた。
 二人に座るように促したカエデがカケルに話し掛け、カケルがそれに短く応える。それが続いた。頃合いを見てナオトが、
「明日にはここを出る」
 と告げると、
「まだいいだろう、ゆっくりして行け」
 と、姉が懇願するようにして引き止めた。
 しかし、ナオトにはナオトの考えがあった。善知鳥の里に戻ろうというのではない。少し足を延ばして、父が生まれ育った南の象潟きさがたまで行ってみようと考えていた。深浦の岬からの帰り道、進む先に日が昇ってきたとき、
 ――そういえば、この後会う義兄のカケルも父と同じ象潟の出だ……、
 と、思い当たった。そのときなぜか、その象潟きさがたという響きがナオトの心を捉えたのだ。

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