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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[028]地図を描く

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第2節 ヨーゼフ
 
[028] ■3話 地図を描く
 食事の後で、老人は赤い汁を勧めてくれた。初めてみるものだったが、ナオトはその汁を老人を真似てごくりとのどに含んだ。やぶになる実のような、何ともたとえようのない香りがした。しかし、藪の実ほどは甘くない。
「うまいか?」
「いいや」
 ヒダカ言葉でこう答えたとき、老人が初めて笑った。

 食後も、ヨーゼフの話はとめどなく続いた。何か、これまで抑えていたものが一気にあふれ出すような感じだった。話している意味は、じつのところ、ナオトにはほとんどわからなかった。だが、老人が何を伝えようとしているかはなんとなくわかった。
 話の途中、奥に立って行き、何かの革の薄い切れはしを持ってきて食卓に広げた。切れ目を付けた鳥の羽根のを黒い液にひたして、丸を大小五つ、横に並べてき付けた。
「これから描くのは、クニと土地がどう並んでいるかを見るための地図だ」
「チヅ?」
 うなづくと、ヨーゼフは一番右にひとつだけ離して描いた小さな縦長の丸の上端うえはしを指で押さえて言った。
「ここがヒダカだ」
「ヒダカ? 吾れのクニですか?」
 訊き返すと、うんうんと頷いて▲印を描く。その左側に描いたはるかに大きな丸の真ん中から少し下に同じ▲の印を描き、その近くに指をわせて、
「ペルシャ」
 そう言うヨーゼフ爺さんの顔を見ながらナオトが繰り返す。
「ペルシャ……?」
 また、うんうんと頷いた。ナオトはその▲印を指差し、
「そこで生まれたのですか? ペルシャで?」
 ヒダカ語でそう訊いてから、「おぎゃー」と二回口にした。
 嬉しそうに笑ったヨーゼフが、ナオトの肩を叩きながら言った。
「ウギュー、ウギュー」
 ヨーゼフが話しているのはペルシャの言葉だった。ペルシャ語は、広いペルシャの中でいろいろに変形していて、自分が話すのはそのうちのソグド語だとヨーゼフは言ったのだが、ナオトには何のことかよくわからなかった。
 それを感じ取ってか、ヨーゼフが目の前の地図を端から端まで指でなぞりながら言った。
「ソグド商人が話すソグド語はこのすべての土地で通じる」
「ソグド語、ソグド商人……」
 ――地図の一番大きな丸の中に描いた▲印は、ペルシャという大きな土地の広がりのうちのバクトリアという国を表したものらしい。クニなのかムラなのかはわからないが、とにかく人が多く住むところだと言っている。オアシスと言ったのだろうか? それと、サカ何とかの国だとも言ったようだ……。

 ナオトが熱心に聞き入っているからだろう。ヨーゼフの話はだんだんと込み入ってきて、付いていけなくなった。ナオトは、すべての言葉をその場で覚えるのはあきらめ、どうにか話の筋だけをまとめて頭に入れようと切り替えた。
 ――北ヒダカのうちの善知鳥うとうのようなものだろうか……。とにかく、ヨーゼフ爺さんはペルシャの内にあるバクトリアで生まれたのだ。そして、ソグド語を話す。爺さんの弟のダーリオもそうだ。
 ナオトにはよく理解できなかったが、彼ら兄弟には国という考え方はないという。代わりに、通ったところ、通り過ぎた場所と何度も言った。
 目の前の地図の上を両手で囲うようにしておいてから、何とかと言いながら、人差し指を左から右にさっと走らせる。これを繰り返した。ナオトはこれを、「通り過ぎた」と解釈した。
 ――クニがあってもただ通り過ぎるだけ。ヨーゼフが生まれ育ったバクトリアもまた通っただけということらしい。そこで三十年近く過ごしたというのに……。
 右端の縦長の丸とその左の大きい丸の間を指差して「ダリャー」とか「アプ」とか何度も呼んだ。ナオトはてっきり、爺さんの弟の名前のダーリオを口にしているのかと思ったが、どうも違う。手元の器の中身を指差しているところをみると、はっきりとはわからなかったが、おそらく水か、もしかすると海ということらしい。
「ダリャー」
「アプ」
 ――水と海、または、海と水……。

 ヨーゼフ爺さんは、ヒダカと決めた▲印から、その左の大きな丸の右端の線近くに描いた▲印に向けて太い線を書き、ナオトの胸元を二度指差した。今日、ここを渡って来たというのだろう。その三つ目の▲印を抑えながら「フヨ」というのでそれがわかった。
 さらに、その▲印から同じ円内のバクトリアの▲印まで、くねくねと曲がった線を上に膨らませながら描き付けようとし、自分自身の胸元を二度、親指で差した。
 ――そうか、この道筋を通ってフヨまで来たのか……。
 しかし、ヒダカとフヨの入り江の間は狭く、小指一本分なのに比べて、フヨの入り江とバクトリアの間は広げた手のひらほども離して描いてある。
 ――西の海は広い。その広い海よりも遠く離れているというのだろうか?
「フヨの入り江とバクトリアはそれほど遠いのですか?」
 ナオトがヒダカ言葉で問うと、訊かれた意味がわかったのか、爺さんは「サル、サル」と答えた。
 ――サル? サルとは年のことではなかったか。としで表した方がいいほどの道のりとはどれほどなのだろう?
 舟の上でカケルが、ヨーゼフ爺さんは何か月も掛けて西からやってきたと話してくれたことを思い出した。
 ――そうか、歩けば一年も掛かるということか、それとも、サルを二回、二年だろうか?
「バクトリアには何があるのですか?」
 ナオトが訊いた。バクトリアの名を覚えたかと満足そうに頷き、ヨーゼフは、
「ファルドー…………」
 と、よく聞き取れない言葉を口にして笑った。左腕を曲げて枕のようにし、ほおせて眠るような仕草をしたので、疲れたからまた明日とでも言っているのだろうと解して頷き、黙った。
 ――残る丸については、明日にでも訊いてみよう。
 
 どうしてもというので、礼を言って勧めを受け入れ、その夜はヨーゼフ爺さんの家に泊まることになった。去り際に、よく話したなと身振りで伝えようとし、「また明日」とナオトに告げて奥に消えた。
 食堂に残されたナオトは、先ほどから気になっていたこれまでに見たことのない食器や道具を勝手に、しかし丁寧に棚から降ろし、手に取ってどういう素材でできているのかといちいち調べ出した。
 ――この初めて見る重たい金属はなんだろう? それに、この透き通る飾りうつわはどうだ。なにでできているのだ?
 見るもの、手にするものすべてが新しかった。このときナオトは、心底、カケルに頼んでここまで連れてきてもらってよかったと思った。母をヒダカの善知鳥の里に一人残しての旅がこの先長く続くとは、ナオトはまだ見当を付けていなかった。
 いろいろなことが起きた一日だった。突然の眠気に襲われ、ナオトは、道具類をゆっくりと元に戻し、いままで座っていた何かのけものの毛皮を長椅子から食堂の床に移すと、久しぶりの乾いて揺れない大地の上で夢も見ずに眠った。

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