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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[029]北のハンカ湖に向かうカケル

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第3節 ハンカ湖の会所
 
[029] ■1話 北のハンカ湖に向かうカケル
 フヨの入り江に着いた日の昼過ぎ。
 ナオトをヨーゼフ爺さんに託したカケルは、ハヤテと並んで足早あしばやに浜に向かった。五度目になる北のハンカ湖行きの仲間と落ち合う。
 積み荷はすでにハヤテが手配した小舟三艘に移し替えてあった。ヒダカでは見ない木と板と竹材を組み合わせた作りの軽快な舟で、帆とかいとを行く先と荷と舟子の数に合わせて使い分ける。
 舟子はこの地に住むヒダカ人が半分、フヨ人が半分だった。みな頼りがいのありそうな面構つらがまえをしている。
 漕ぎ手を兼ねた案内人が二人いた。そのうちの一人は、ヨーゼフと似た顔付きをしたこのあたりではあまり見ることのないキョウ族のドルジという男だった。いつもは北の舟寄せまで馬で行き、そこで舟に乗り組むのだが、今日はヨーゼフから託された荷を抱えて入り江から一緒に舟で発つという。
 カケルとは旧知で、笑って挨拶を交わした。
 ――このドルジに馬の乗り方を教わってからもう四年も経つのか……。

 日が沈むまではまだだいぶ間がある。いい風もある。
 カケルたちが飛び乗ると、時を惜しむように、舟はすぐに北に向かって進みはじめた。フヨ人の梶取かじとりが巧みに櫓をあやつっている。他の二艘がそれに続く。目指すのは湾が尽きたところにある北の舟寄せのなお北方にあるハンカ湖。四日ほどの短い旅だ。

 しばらく前に風が止み、湾の西岸をみなで漕いで進んだ。日が落ちて、辺りは薄暗くなってきた。
 ――北の舟寄せまではまだだいぶある……。
 ハヤテは舟宿を諦め、樹林の陰にかねてより設けてある隠し江に舟を停めて今夜一晩を過ごすと決めた。後ろを振り返って、水の上を来る者はないと確かめる。
 焚いた火の周りで土鍋を囲み、干し魚をかじった。舟子たちと明日の段取りを話すハヤテの声を聴いているうちに、西の海を渡ってきた疲れが出たものか、フヨ言葉のわからないカケルは草の上に敷いた麻布に片頬を付けて死んだように眠った。

 翌朝。日の出前から北への舟路を急いだ。浜辺の水鳥が耳にさわるほどに鳴いている。
 息慎ソクシンおかと出会う湾の付け根にある舟寄せの手前から、土地の者たちが北のみづうみと呼ぶハンカ湖周辺の湖沼地帯まで、人の手の入っていない川と湿原とからなる水路が通じている。
 フヨ人が曲がった川という意味だと言うそのムーダンウラは、溢れるほどに水かさがあり、流れているのかどうかわからないほどゆったりと南に向かって流れている。小舟を走らせるのには十分な深さがあり、帆走の条件さえ揃えば大量の物資を運ぶことができるが、案内なしではとてもわたっては行けない。
 地元の漁師の中には、昔からハンカ湖の周りに住む息慎や、近頃その辺りまで出没するようになった鮮卑センピわるものが怖いからと、北に向けて舟を出すのを嫌がる者もいた。
 しかし、土地をよく知るフヨ人は「なあに」と笑い飛ばす。湿った原に足を踏み入れる者などいない。いつ賊に襲われるか知れないフヨの南の海際や、松花江スンガリウラの東岸に穴を掘って棲む息慎のさとの方がよほど怖いという。
 湾を出てその水路に入ったハヤテたちの舟三艘は、風を頼りにゆったりとした流れをさかのぼって行った。この先三日を掛けて、それぞれの舟に乗り組む舟子たちが力を合わせて櫂でぎ、どうしてもというときには、水路の岸を麻綱でいて進む。
 舟子の一人が太い竿さおで舟を後ろから押し、二人は舟首へさきに繋いだ綱を胸に真横に掛けて、梶取の掛け声に合わせて前かがみに曳き、あるいは舟の向きを変える。帆が風を受け、舟が進みはじめると、舟子は綱を舟に投げ戻し、遅れないようにと大急ぎで飛び乗る。

 いい風に恵まれ、それから丸三日でハンカ湖の南西の岸に出た。舟子には屈強な者たちを選んでいるのだが、初日から漕ぎ、ときには岸の泥の中を水草をかき分けながら舟を曳くということの繰り返しで、さすがにみな疲れ切っている。

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