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20年前の今日(カルチャーショックリハビリ日記番外編)

留学のためイギリスに渡った日からちょうど20年の今日。

なぜこの日に行くことを決めたのかというと、実は占いが決め手だった。

同僚にホロスコープの読める年配男性がいて、見てもらったところ、その日がいいということだったので、そうすることにしたのだ。

結局それが良かったのかどうかはわからない。

けど、私の人生を180度変えたのはこの日だった。

というわけで、記念に書き記していた当時の日記をここでババーンと開帳します。
個人情報が特定される箇所以外は手を入れていません。
20年前の私の文章、どうぞ笑ってやってください。

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1998年6月20日
10時 我が家を出発。バスに乗って千歳まで。
お母さんの作った弁当を食べる。最後の日本食と思い、味わう。
2時30分発成田行きのJALに乗るには2時間以上時間があったので、先に搭乗手続きを済ませてぶらぶらしようとしたが、「乗り継ぎのお客様は90分前からなんです」と非情な一言。スーツケースを引っ張ってどこへ行けというのか。
しょうがないので、ガラガラと引っ張って海外旅行保険の窓口へ行く。
「帰りの航空券お持ちでないお客様には、出来ないんです」アホ言うな。使えねえやつらだ。そんな話聞いた事ない。成田のほうがきっと話が早い。そして無駄な時間を千歳で過ごした。お土産に持っていこうとしたヒロミゴーの「ダディ」を読むには良かったが。
成田に着いて4時。JALの止まる北ウイングからキャセイに乗り換える為、南ウイングまで行かなければならない。バスで。飛行機は6時。まったくよお。
南ウイング到着4時半。搭乗手続きを済ませ、保険のカウンターを探す。
「とりあえず1年…」「11万円です」財布には10万円しかなかった。荷物から友達の御餞別の袋を慌てて取り出す。延長できないな。
放尿を済ませ、さあ出国だ、と階下へ赴くと長蛇の列が。やべえ、5時半じゃない。
とりあえず滑り込み、香港行きの飛行機に乗った。
成田では3時間は必要だ。わかっていたのに…
そもそもあの旅行会社に頼んだのが諸悪の根元だ。私は香港に1泊するつもりでいたのにそれが不可能になって、おまけにチケットが届いたのが出発2日前。なんたるちや。
香港までは約5時間。どうってことない距離だ。機内食にお蕎麦。もう暫く食えない。
私がキャセイを選んだのは、初めての渡英がそれで、しかも途中バーレーンを経由する便で、一度飛行機を降りて空港を一回りして体をほぐす事が出来たから。13時間縛られているなら、15時間かかっても体動かしたいと思った。
しかし、香港発バーレーン経由ロンドン行きという便はもうなくなっていて、ガトウィックに止まるはずの飛行機もヒースロー着に変わっていた。9年も経てば変わるものか。
香港到着現地時間9時半。せっかく替えた香港ドルをどうしても使いたくて、免税店でオードトワレを購入。日本より1000円くらい安いのか?きっとディスカウントショップのほうが安いに決まってる。
北海道にいた身としては成田も死ぬほど暑かったが、香港は地獄のように暑い。夜というのに空気がよどんでいる。空港の空気もよどんでいる。みんなだらしなく床にへばりついている。あーあ、香港行きたかったなー。中華食いたかったなー。
私は直行便が嫌いだ。12時間か。日本より1時間短いな。
飛行機に乗る。通路側は良い。トイレ行くのに遠慮が要らないから。
私のとなりは中国人男性、そして窓側はイギリス人女性。私があまりトイレに行かないのに、他の二人はよく席を立とうとする。その度に身を捩っていた私。
空気枕で爆睡を決め込んでいたとき、イギリス人女性がトイレに立った。そしてあろう事か「私を通路側にして、一つずつ詰めましょう」と言い出した。眠くてしょうがない私は反論できず、素直に従ってしまった。おそらく自分がしょっちゅう席を立つ事に対して気を遣ったのであろうと思われるが。私がとにかく大損だ。彼は窓側に行けた訳だし。私の大きな体をどうして真ん中に収めようとするのだ。
私は、両側の肘掛けを独占する事で復讐した。二人とも無反応であった。
しかし、飛行機で眠るというのはひどくつらい事だ。体を横たえずに、シートを倒しただけでは眠れない。いつも横向きで寝ているのに、椅子ではそれが出来ない。
しかし、あの空気枕を発明した人はえらい。あれのおかげでずいぶん快適になった。
日本発の飛行機のビデオプログラムには日本語吹き替えがあったのに、香港発にはなかった。A man in the iron maskという、ルイ14世は実は双子で、片割れが鉄仮面を被せられて牢獄に居るのをじじいになった四銃士が助ける(と、私は解釈した)、というディカプリオの映画を放映していたのだが、英語かフランス語の吹き替えしかなかった。助かった事に中国語の字幕があったので、なんとなくだが筋を知る事だけは出来たようだ。ディカプリオが呼ばれていた「路易」、ルイ14世らしい。
ブロイラーのように機内食を詰め込まれ、降り立ったヒースロー。現地時間は1998年6月21日午前5時。日本時間は同日午後1時。家を出てから27時間が経過していた。
何よりも心配だったのがイミグレーション(入国審査)。緊張して臨んだのだが、割とすんなり1999年の10月いっぱいまでビザがもらえた。
拍子抜けした私は、ヒースローから家に電話してジュースを飲んでぐったりとしていた。
ぐったりしていた私の目の前には日本人の女とイギリス人と思しき男の延々と続くラブシーン。日本人なら恥を知りなさい恥を。朝の6時からようやるよと言いたかった。
もう一つびっくりしたのは、50Pコインが変わっていて使えなくなってしまっていた事。去年使ったコインなのに。そして新しく2ポンドコインが出来たとか… 今現在でもあまりお目にかかれない。
エアバスで大荷物を抱えてキングスクロスまで行き、そこでタクシーを捕まえてロンドンブリッジに行くつもりだったのだがタクシーが見当たらず、やむを得ずチューブで赴く。死ぬかと思った。
ロンドンブリッジに着いて、居候先の友達の家に電話をしようと思っても電話が見当たらず、聞いたら階段を上ったブリットレイルの駅のほうにしかないという。腕がもげるかと思った。
ようやく友達に会えて、家までガラガラとスーツケースを引いてもらった。
シャワーを浴びて、それから何時間爆睡したことであろう。
これから起こるであろういろんな事、いい事、嫌な事、楽しい事、悲しい事、何一つ想像する事さえなく。


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