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何があっても乗り越えられる!誰もが幸せになっていい!元アダルトチルドレン母コーチはやしの自己紹介*過酷だった幼少期*男性不信の始まり


私は
「毒親」
と呼ばれる
親に育てられた
アダルトチルドレンのお母さん向けの
コーチングをしています。

私自身もアダルトチルドレンで、
アルコール依存性の父
精神疾患の母『毒親』に
育てられました。

『毒親』

あまり好きな言葉ではありません。

『毒親』も「毒」を持とうと思って毒親になったわけではないからです。

私も自分の子供にとって
『毒親』だと思い、迷惑な存在
「消えた方がよい存在」
と思っていました。


しかし、40年経って
『毒親』も「毒」を持とうと思って毒親になったわけではないとわかったからです。

そう思えるようになったのも
『親』との関係に苦しんでいたことから、
卒業できたからだと思います。

それは、皮肉にも
私が大人になって作った新しい家族
旦那、4人の子供と『離婚』という
決断をして
ようやく、母の呪縛から
解き放たれたのです。

「人生で起こる事は
全て必要なことだった」

全身で分かり

ようやく
今「自分」を精一杯
生きるということができています。

ここまで辿りつくのは
本当に本当に
長い道のりでした。
私の子供時代は振り返ると
「子供」ではありませんでした。

民生委員の人に母と私の関わりを見て
「親子の立場がまるで逆転している」と言われていました。

私には、

2歳年下の妹が生まれる前の
記憶があります。


母は両脇を2人掛かりで
だれかに押さえつけられています。
お母さんは「わー、わー」
大きな声を出していました。

目の前では
車がビュンビュン走っていました。

母は
「もう!死なせて!」
と、わめき声を出しながら
道路に飛び込もうとしているのです。 
私は
「こわい!」
「おかあさんが車にひかれて死ぬ!」
「どうしよう!」
と、ビクビクしていたと
思います。

そこからしばらくして、

病室で
赤ん坊の妹を
病室で抱っこしている
母の不幸な顔が焼き付いています。

わたしはそこから、
お母さんの顔をよくみるようになりました。

お母さんは
怒った顔
困った顔しかしていません。

私のお父さんは機嫌のよい時と怖い時がありました。 
お酒を飲んだら顔が明るくなり
可愛がってくれました。
怖い時は暴力を奮いました。
ある冬の日
コタツが壊されました。
冬なのに
寒くて、しもやけができました。
コタツを粗大ごみに出した風景が
悲しかったです。
機嫌の悪い時、
お父さんの傍には
包丁が常にありました。
お父さんとお母さんが喧嘩した時は
お母さんの髪の毛を鷲掴みにされ、
目が腫れ上がり、たん瘤ができました。
掃除機のコードで首を締められました。
妹は風呂に顔をつけられ、
私は父が「カァッ」 
となって投げつけたお箸が、
まぶたにに当たって
跡ができてしまいました。

家族はお父さんが暴力を
振るわないかドキドキしていました。 
でも私は
何故かお父さんに可愛がられているという
自信がありました。

家の中ではお父さんは
常にパンツ一丁。
お酒を飲みに行く時は
オシャレをしていました。
ですが、
家でパンツ一丁で
ビールを飲む時がありました。
大瓶を3本酒屋さんまで買いに行くのです。
そして家で飲んでいる時
機嫌が良くなりました。
そしてお父さんは
私を呼びました。

私はお父さんに可愛がられていると思いました。
お父さんの股の間に座るように呼ばれたのです。

私はお父さんに可愛がられていると思っていたのです。

ですが、
なにをされていたのか 
うっすら理解できたのは

小学校に上る前です。

引っ越し先のアパートに住む
近所の小学生のお兄ちゃんに
パンツを脱げと言われました。
私はそのお兄ちゃんと
パチンコの玉を集めて遊んでいたのです。

私はその時も何をされているのか
わからなかったのです。

でも、誰かに言ってはいけないような気がして
父も母にも言えずにいました。
それで、その土地も引っ越したのです。

しかしもう少し後で
わかりました。

狭い2つしか部屋のない
アパートに引っ越した時です。
たまに
お父さんが妹と私に「あっちいけ」と。
お母さんを呼んだあと
襖をピシッとしめるのです。

すると、部屋から
お母さんの変な声がきこえるのです。 
「私は何をしているのだろう?」
と思い
襖からそっと覗きました。
すると

母の上に父が乗っているのです。
私は見たらいけないものを見たような
感覚に陥りました。

凄く恥ずかしい
汚い物を見たような
イナズマが走ったような
感覚に陥ったのです。

そして
あの時お兄ちゃんにされたこと
お父さんの膝に呼ばれたこと

お母さんの気持ち悪い声
全て繋がって。
私は汚いものなんだと
このままではいけないと思いました。

更に  
お母さんは学校の先生に
「おとうさんにサービスしないと
あかんから大変」
と話しているのです。

私は顔が真っ赤になりました。

私に初めての時は痛いでなど
面白がって伝えます。
恐怖に怯えました。

私は凄く恥ずかしくて
汚らしくて

この頃から
母を汚い者として見るようになりました。
母はたまにカレーを作るのですが、
一切食べる事ができませんでした。


この頃
別の家の子供になりたいと妄想していました。

友達ができても、
家を知られるのがどうしても
嫌という感情が芽生え

「違う」別の家を教えていました。

私が小学校に入った頃から
お母さんの独り言が益々
多くなりました。 
アパートの皆が使う物干し竿で
首をつろうとしたり。

私達姉妹に
『雪山に登って死ぬか
ガスで死のう』

と毎晩布団の中で聞かされました。
いつも、妹を真ん中で川の字で眠っていました。

私は
死ぬんだ。
と思っていました。 

母は死ぬというのは
ずっと寝ていることと教えました。
私はずっと寝ていたいと思いました。

母は独語が
激しくなりました。
私の話は一切耳に入ってないみたいです。
「みな言ってるよ」と
ブツブツ独り言を言っています
独り言の中身は誰かがお母さんの事を
悪く言ってる、という内容でした。
一日中独り言を言っています。 
10円ハゲが気になるのが、
ずっと頭を触っています。

この頃から

『睡眠薬、安定剤飲まな』と
よく言うようになりました。
お母さんは毎日夕方4時頃には
『睡眠薬』を飲む準備をしていました。

小さい頃から
我が家は何度も引っ越ししていました。

保育所を2回

小学4年生までに7回転校しました。

妹に至っては小学校を一ヶ月も行っていません。
高学年で少しだけ
特別支援学級のようなクラスに通えた記憶があります。


すっかり
この頃には
うちは
うちの家は
おかしいと気づきました。

私は隠すようになりました。

『普通になりたい』

私の嘘で、固めた人生の始まりでした。

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