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V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』人間の尊厳と生命の価値の剥奪(強制収容所)

V・E・フランクルは強制収容所に送られた経験をもとに『夜と霧』を書きました。

『夜と霧』は収容所での壮絶な体験から人間の心理や生き様を書いた本です。

この本である『それでも人生にイエスと言う』はフランクルが強制収容所から解放された翌年にウィーンの市立大学で行った三つの連続した講演を収めたものです。(本書解説より)

カント以来、ヨーロッパの思索は、人間本来の尊厳についてはっきりした見解を示すことが出来ました。カントその人が定言命法の第二式で次のように述べていたからです。
「あらゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段とされてはならない。」

カントの言うように

私たちは

人間を目的のための手段としてはならないということを

もう一度確認しなければなりません。

人間の尊厳を尊重することは

忘れてはならない基本的な原理です。

けれども、もうここ数十年の経済秩序の中で、労働する人間はたいてい、たんなる手段にされてしまいました。自分の尊厳を奪われて、経済活動の単なる手段にされてしまいました。もはや、労働が目的のための手段に、生きていく手段に、生きる糧になっているということですらありませんでした。むしろ、人間とその生、その生きる力、その労働力が経済活動という目的のための手段となっていたのです。
それから、第二次世界大戦が始まりました。いまや、人間とその命が、死のために役立てられるまでになったのです。そして強制収容所が建設されました。収容所では、死刑の判決を下された命さえも、最後のひとときにいたるまで徹底的に利用されました。それにしても、生命の価値はなんと低く見られたことでしょうか。人間はどれほどその尊厳を奪われ、おとしめられたことでしょうか。

民衆の未満を逸らす道具として

多くのユダヤ人が標的となり収容所に送られました。

そのユダヤ人の人間としての尊厳を剥奪し

徹底的に労働力の駒として使い果たし

そして

使えなくなると

銃弾すら惜しみ

非道なガスで殺していったというのが事実です。

このことを確認するために、ちょっと思い浮かべてみましょう。一国家が、自ら死刑の判決を下したすべての人間を、何とかしてもっと徹底的に利用しようとするのです。猶予された人生の最後の瞬間の至るまで、なおその労働力を役立てようとするのです。おそらく、そのような人間をあっさり殺してしまったり、それどころか生かしておいて死ぬまで養ったりするより、そうするほうが合理的だという考えから、そうしようとするのです。
また、強制収容所では、私たちは「スープをやる値打ちもない」と言って非難されることさえしばしばでした。そのスープはといえば、一日の一度きりの食事として与えられたものでした。しかも、私たちは土木工事を果たして、その経費を埋め合わせしなければならなかったのです。価値のない私たちは、この身にあまる施しものを受け取るときも、それのふさわしい仕方で受け取らなければならなかったのです。囚人はスープを受け取るとき、帽子を脱がなければならなかったのです。

人間を肉体的に殺し

精神的に殺していったのは

同じ人間であったということです。

そこには思考停止という悪が存在していました。

決まっていることだからということで

ルールに則って

淡々と

実に酷いことが

日常生活の一部として

実行されていたことに

胸が重くなります。

しかし

当時の政権にたてつくことは死を意味することとなります。

その時に自らの死をかけて異議を唱えることは

果たしてできただろうかと自問し

ただ震えるしかないのです。

さて、私たち命がスープの値うちもなかったように、私たちの死もまた、たいした値打ちもありませんでした。つまり、私たちの死は、一発の銃弾を費やす値うちもなく、ただシクロンB(青酸の入ったガス状の害虫駆除剤)を使えばよいものだったのです。
おしまいには、精神病院での集団殺害が起きました。ここではっきりしたのは、もはやどんなみじめなあり方でも「生産的」ではなくなった生命はすべて、文字どおり「生きる価値がない」とみなされたということです。

生産的であることだけが人間であると

いうことではないということを

改めて認識することが必要です。

また

何を持って生産的だというのでしょうか。

物質だけではないものがあるではないですか。

人間とはもっと複雑で情緒的であるのではないでしょうか。

このような

恐ろしいことを繰り返さないためにも

過去の事実を正しく認識しておくことが大切だと思いました。

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