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サマセット・モーム『サミング・アップ』三つの価値(善)

どうやら「真」も「美」も本質的な価値を持つとは言えそうもない。
では「善」はどうだろうか。
だが善の前に愛について語りたいと思う。
愛はすべての価値を包含すると考えて、愛を人間のあらゆる価値の中で最高のものと認めている哲学者がいるのだ。
プラトン主義とキリスト教がともに愛に神秘的な意義を与えてきた。
愛というといろいろな連想があるせいで、平凡な善よりも心ときめかす人は多い。
これに較べると善は地味である。

だが愛には二つの意味がある。
つまり、素朴な愛、性愛が一つで、もう一つは慈愛(ラヴィング・カインドネス)である。

プラトンですら両者を混同していると思う。
彼は性愛に伴う歓喜、力強い感覚、高まる生命力をもう一つの愛から派生しているとしているようだ。
もう一つを彼は天の愛と呼び、私は慈愛と呼ぶのである。
プラトンは、混同のせいで、天の愛を地上の愛の根深い悪によって汚染させてしまった。

性愛は過ぎ、消え去る。
人生の最大の悲劇は人が、死ぬことではなく愛が死ぬことだ。
人生における不幸の中で決して小さくない不幸、誰にも救えない不幸は、こちらが愛している人がもう愛してはくれないことである。

ラ・ロシュフコーは「二人の恋人の間には愛する者と愛される者がいる」ことを発見したとき、人間が愛において完全な幸福を得るのに障害となる不一致があることを、警句の形で述べたのであった。

愛というと性愛と同じものであると考えていることが実に多いように思う。

善である愛とは慈愛のことであり、自分を中心に考えるというものではなくみんなの幸福を考えるということなのだ。

・・・

人の魂は、常に自由になるべく奮闘しているので、愛が要求する自己犠牲を、僅かな時間を除くと、神の恩寵からの堕落だとみなしたこともある。
愛がもたらす幸福は人間が味わいうる最高のものかもしれないが、めったに純粋ではない。
愛の物語は常に悲しい終わりを迎える。
愛の力に怒り、その重荷から解放されることを怒りながら神に祈った者は多い。
人は自分を縛る鎖を抱きしめたが、それが鎖だと知ると憎んだ。
愛は必ずしも盲目ではなく、愛に値しないと分かっている相手を全身全霊で愛するほど惨めなことはない。

この文章の中の愛とは性愛に近い愛ということ。

純粋な愛ではないために常に悲しい終わりがある。

愛だと信じたものが愛ではなく、自分自身を縛る鎖だと理解することで、愛に失望し、憎むこととなる。

虚しい愛となる。

しかし慈愛は、性愛の除去しえぬ欠点である移ろいやすさに侵されていない。

・・・

慈愛は善の大半を成す。
慈愛は、善の中身である厳しい徳目に穏やかさを与えて、自制、忍耐、規律、寛容などを心明るく実行できるようにさせる。
これらは、本来なら、受身的であまり楽しくない善の要素であるのだ。
善はこの現象界において、それ自体が目標だと主張出来そうに思える唯一の価値である。
美徳の報いはそれ自体にあり、と言う。

慈愛とは善であり、美徳であり、その行為そのものが報いとなる。

慈愛の善は私たちに力を与え、自信をつけさせる。

自分で自分を認めることができるようになるのだ。

こんなありきたりの結論の達したことを私は恥じる。
効果を狙うのが好きな私なので、本書を何かはっと思わせるような逆説的な宣言で締めくくりたかった。
あるいは、読者がいかにも私らしいと笑いながら認めるような皮肉で締めくくりたかった。
どうやら私の言いたいことは、どんな人生案内でも読めるような、どんな説教壇からも聞けるようなことだったらしい。
ずいぶん回り道をしたあげく、誰でも既に知っていたことを発見したのである。

真の善である愛は、生物学的にも体に刻み込まれたものであり、私たちが生き残る手段だったとも言える。

だから善ということを考えていくと、最終的には今まで言われ続けてきたものに行きつくということだ。

・・・

善意ついては、他にましなものが見出せなかったが故に、私が人生途上で出会った多数の人物に見出した善(思い出すと予想外に多くの全の事例を目撃できたのである)には実体があると自分に思い込ませようとしてもよい気がした。
もしかすると我々は善に、人生の理由や説明ではなく、人生の悪を軽蔑する役目をしてもらうのかもしれない。
このお粗末な宇宙では、我々は揺り籠から墓場まで悪に取り囲まれているのだが、善が挑戦でも答えでもなく、我々が独立した存在であるのを確認するのに役立つであろう。
善は運命の悲劇的な愚劣さに対するユーモアの仕返しである。
善は美と違い、完璧であっても退屈なものとはならない。
また美より勝っているのは、時間が経ても喜びが色褪せぬことだ。
しかし、善は正しい行為において示されるであるが、この無意味な世界で何が正しい行為であるかは、いったい誰が言えようか。
それは幸福を目指す行為ではない。
もし幸福が得られたとしても、幸せな偶然である。
よく知られているように、プラトンは賢者に平穏な思索の生活を捨てて実務の喧騒のただ中に飛び込み、それによって義務を幸福より優先させるよう勧めた。
我々も皆、その道がそのときも未来も自分に幸福をもたらさないことを分かっているのに、正しいと信じられる道を選んだ経験があると思う。
では、正しい行為とは何か。
私としては、十七世紀のスペインの修道僧ルイス・デ・レオンの答えが最上のものだと考える。
この教えに従うことは、弱い人間が自分の力では無理だとして尻込みするほど困難だとは思えない。
この言葉で本書を終える。
曰く、
人生の美はこれに尽きる、即ち、各人は自らの性質と仕事に応じて行動すべし、と。

何をするべきなのか

今の損得だけではなく

未来に繋げていくためには

私たちは何をするべきなのかを考えていくとき

現在の幸福となならないものを選ぶことがある。


苦しい選択となることもある。


その選択をすることこそ

善の行為だと思う。

そして

その正しい行為とはどういうことなのか。

十七世紀の修道僧ルイス・デ・レオンの言葉が最後に書かれている。

「人生の美はこれに尽きる、即ち、各人は自らの性質と仕事に応じて行動すべし」

つまり

私たちは

「出来る時に、出来ることを、出来るだけ、頑張ってする」

ということだろうか。

その時の最善を尽くすようにする。

その時を味わい尽くして生きる。


それが正しい行為であり

善となる。

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