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サマセット・モーム『サミング・アップ』哲学

そもそも哲学は哲学者や数学者とだけ関係があるのではない。
人間全体に関係する問題である。
大多数の人が哲学が扱う問題に関する考えを又聞きで鵜呑みにしているのは事実であり、大部分の人は自分が哲学らしきものを持っているのを知らない。
しかし、最も無思慮な人でも、口には出さずとも、何らかの哲学を持っている。
この世で最初に「覆水盆に返らず」と言った老婦人はそれなりの哲学者だったのだ。
後悔は無益だという思想を述べたのであるから。
一つの哲学体系が窺われる。

決定論者の言わせれば、人が人生で踏み出すどの一歩も、今の自分のありようで決まっていることになる。
ありようには、筋肉、神経、内臓、頭脳だけでなく、習慣、意見、思想も含まれる。
こういうものは、本人はほとんど意識しなくても、また、どれほど矛盾し、理不尽で、偏見があっても、現に存在して行動や反応に影響している。
言葉で表明したことがなくても、それらが哲学なのである。
大多数の人が自分のありようの全てを哲学のように体系化しないというのは却って好都合であろう。
それは思想、少なくとも意識的な思想ではなく、一種の漠然たる感覚である。
生理学者が少し以前に発見した「筋肉感覚」のような感覚で、自分の暮らしてきた社会の通念であり、それを自分の経験で僅かに修正した程度のものに過ぎない。
大多数の人は決まりきった人生を送り、まぜこぜの考えや感じなどからなるこの感覚があれば、それで十分生きて行ける。
大昔からの知恵なども含まれているから、日常生活にはまことに適切な感覚である。

しかし、私は違う。

自分ならではの人生模様を描いて生きたいと望み、若いときから、自分が考慮すべき人生の諸要素が何であるかを見定めたいと思った。
宇宙の全般的な構造についての知識も可能な限り得たいと望んだ。
現世しかないのか、それとも来世もあるのか、その点をはっきりさせたかった。
自分が自由の行為者であるのか、それとも自分の意志に従って自分を形成しているという感覚は幻想であるのかを知りたかった。
人生に意味はあるのか。
それとも自分が人生の意味を付与するように努力すべきなのかを知りたかった。

こうして私は哲学書を手当たり次第に読み出した。

哲学についてよく知ることなく

大多数の人は

日々哲学の思想を無意識のうちに使って暮らしている。

その哲学の思想というのは

自分の暮らしている社会通念であったり

昔ながらの知恵であったりする。

大多数の人は漠然たる感覚の中で生活している。

それでうまく適応しているとも言える。


しかし

モームは違ったのだ。


自分ながらの人生模様を描いて生きたいと思った。

宇宙の構造について十分に知りたいと願った。

現世だけでなく来世も存在するのか明確に知りたかった。

自分の感じているこの自由の感覚は本物であるのかを知りたかった。

そして

人生に意味はあるのか。

自分が人生に意味を与えるように努力することが必要なのかを知りたかった。

ほんとうのことが知りたかった。

本物の人生を送りたかった。

だから

哲学書にその答えを求めて

むさぼり読んだというのだ。


私も辛い時期に

自分の求める答えが

哲学書の中にあるに違いないと信じて

多くの哲学書を読んだ。

難しかった。

古い翻訳だと

日本語の意味さえ

はっきり言って

全く理解できなかった。

それでも

他の哲学書にはあるに違いないと思い

読み進めていった。

理解することなく

字だけを追うことを日々やっていた。

そんな時もあった。

哲学書を

お経のように読むことで

自分を落ち着かそうとしていた。

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