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人はずっと走れない。

走るのが嫌いだ。比喩でもなく走るのが嫌いだ。歩くのは最近ダルくなくなってきた。もう一年毎週一回はジムに行っていれば、以前よりも体力が出来てきていることを実感する。

思えばずっとどこかで立ち止まっては歩きだすってことを繰り返している。どこかで走ったことがあるだろうか。そんなことを自問自答しても、小走りぐらいしかしていないと思う。

ずっと走っていると、きっと気付かないことが多いんじゃないか。そんなことを考えることが多くなった。周りの風景もあっという間に通り過ぎていき、その瞬間瞬間の想いもすぐに色褪せる。いつの間にか歳も取ってしまう。ここまで走ってきたと感じてしまう。それに対して充実していたと考えるのか、悔いが残るようなことが多かったのか。それはもちろん人それぞれで感覚が違うのは間違いない。

最近、十中八九の取材をしていると、自分でどこかで立ち止まらないといけないタイミングが必ずあることを実感する。どこで立ち止まるか、それに自分で立ち止まれるのか、何か強制的な力でブレーキを一気に踏むのか。そのやり方に違いはあるにせよ、何かしら立ち止まる瞬間の必要性を感じる。

立ち止まらないと、もし風景が変わっていても気づけない。いつの間にか周りに誰もいないかも知れない。でもそれはずっと走っていたら絶対に気づけ無い。全速力で走っていたら、どれだけ赤信号が点滅を繰り返していたとしても、ただの小さな赤い点が視界の外でハレーションを起こしているだけなのだ。

独りで人は生きていけないのと一緒で、走り続けることも出来ない。ちょっとの恐怖で右往左往する。もちろんゆっくりあるき過ぎるのもダメかも知れない。メリハリと緩急は絶対に必要だと思う。

ずっと走れないからこそ、マラソンだったり100m走だったり、ある種制約のあるなかでのトップを目指すのかも知れない。何かを規定しなければ走れないのかも知れない。

生きるための持久力は経験を多く積むしかないと思っている。あまりに一辺倒かつ同じようなルーティンの繰り返しだと、そこからは何も生まれない。分かった気になることと、やった気になることが一番怖い。絶対に百聞は一見に如かずは存在する。どれだけVRやARが発達しようとも必ずそれは存在する。

僕らは立ち止まりながら、学んでいく。それを繰り返して成長していく。身体的には成長はしないかも知れないけど、経験的にずっと成長できることは本当に財産なんだと思う。

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