べき論というべきか論
○○であるべき、という論には、常に疑問符を持っている。
自分はろくに編集という作法について勉強しないまま、いまそれも自分自らの意思でオウンドメディアを立ち上げてしまっている。
そんなことだから、原稿も粗かったりして、怒られることもある。もちろんそこは自分に責任があって、そこからは学びが多い。ドラスティックに変化は出来ないけれど、ちょっとずつ変化をしていくことは出来るから、やっぱりそこも積み重ねをつくっていくしかない。
ただ、別に適当にやっているわけでもない。もちろん直前までやっていたメディアづくりで学んだ蓄積もあるし、自分の文章を書くって行為には原点が2つある。ひとつは修士論文で、もうひとつはシナリオセンターに通っていたことだ。
修士論文は単純に卒業論文と同じようにはいかない。しかも自分の場合は今でも少し後悔するぐらい「ガンダム」をテーマにして苦しんだ。
締切日まで出来ずにいた修士論文は結果的に13万字を越える大作に仕上がり、口頭試問を余裕でパスするなど、あっさりするぐらい修士論文としては完成した出来にはすることが出来た。このときの経験は大きく、ある種1冊の本を作ったぐらいなものなのと、わずか3ヶ月で12万字を追い込んで書いたことも、意外と大きな自信となった一方、土壇場まで追い込まれたことを呪うほかなかった。
一方シナリオ・センターにも大学院時代に通っていて、物語の作法的なものを実地で学んだ。初歩の初歩からはじまり、就職してからも都内のシナリオ・センターの作家集団に途中まで通っていた。この経験も文章をつづるという意味で大きな経験となっている。
ドラマのセリフは「嘘」というそのなかで、言葉を作っていくわけですが、その振り子の幅のなかで、どうしても嘘ではない本物が欲しくなる。
つまり、感覚として、いまやっているオウンドメディアでは、出来るだけその人の雰囲気だったり言葉を出来れば脚色せずに伝えたい想いが強い。だからこうする「べき」ということはあったにせよ、そこはちょっと無視することもあると思う。
でも、それでいいんじゃないか。と思っている。大学院時代のある授業で言語学者の教授は言葉は生き物だと言っていた。ずっと変わらないものではなく、変化していくものだと言っていた。変化しなければ今も万葉集にあるような言葉遣いをしているはずだから。
だから、べき論は無意味だと思う。常に変わっていくし、常にいろんなスタンスがあるべきだし、好き嫌いはみんなあると思う。それはそれで良いんだと思う。自分が好きなものを見つければいいし、それは別に批判するものではなくてもいいと思う。
べき、ってことにこだわっていると、本当に必要な何かを失ってしまう。それこそそれは急で要なものだと思う。
だからバックグラウンドは何であってもいい。ある程度のバックグラウンドがあれば、それなりに何とかみんななるんだと思う。絶対にこれをやっておかなければならない。というものはない。
ただ、自分のことを棚に上げてべき論を発するひとには気をつけたほうがいい。そんな人が多くなってきた? のも悲しい。
べき論を語る前に、まず僕らは自分を省みることから始めないといけない。自分も20代のころは感覚がまだまだ青かったなと思うことが多くある。
だから、ちょっとずつ変わっていけばいいんだと思う。
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