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"우리(ウリ)"と「私たち」の間で

もちうさぎです。
昨年の秋学期(9月~12月)はソウル大学に留学していました。
韓国における初めての長期滞在は毎日が文化的発見に溢れていました。中でも韓国語という言語に関する気づきは数え切れず、留学前後で私の韓国語観は不可逆的にアップデートされたと感じます。そこで、今回は最も発見の多かった"우리(ウリ)"という概念についての個人的なアップデートを共有します。


はじめに、우리の辞書的な意味は以下の通りです。

우리
意味:私たち、俺たち、我々、僕の、私の

韓国語辞書Kpedia

韓国の우리(ウリ)

日本語話者(英語話者同様)からすると、「私たち」と「私の」が同じ言葉で表されるというのは馴染みにくい気がします。しかし、韓国では実際に両方の意味(厳密に言うと우리という単語が元来包摂する「私たち」よりも広く可変的な一つの概念)で우리が使用されます。以下に例をあげます。

  • 우리나라 (ウリ ナラ) = 私たちの国、韓国のこと

  • 우리의 만남 (ウリエ マンナム) = 私たちの出会い

  • 우리 집 (ウリ ジプ) = 私たちの家、私の家

  • 우리 남편 (ウリ ナムピョン) = うちの夫、私の夫

  • 우리 지민이 (ウリ ジミニ)= 私たちのジミン、愛情・親近感を込めて「大切なジミン」という感覚

*以下、日本語で表すことのできない우리独自の意味をイメージしていただくためにあえて翻訳を付しません。上のリストを参照してください。

注目に値するのはこれらの用例の使用頻度、汎用性です。一般的な日本人が日常会話の中で日本を指す時、「我が国」という言葉を使うことはほとんどありません。しかし韓国では学生の普段の会話でも한국(ハングク、韓国)に劣らず우리나라 (ウリナラ)が使われ、もちろん政治家の演説にも頻繁に登場します。また、日本人が우리 집(ウリ ジプ)と聞くと頭の中には複数人で共同生活している状態を想像しそうなところですが、韓国人は一人暮らしの家でも우리 집(ウリジプ)と言います。また、우리 남편(ウリ ナムピョン)も当然、一夫多妻制という意味ではなく一対一の婚姻関係でも우리と言います。そして우리 지민이(ウリ ジミニ)のように우리 + 人名と表現した場合、それは通常よりも愛情や親近感、さらには保護者のような慈愛が込められた表現となります。親から子、年上の兄弟から年下の兄弟へ使われることはもちろん、血縁関係のない友人関係、先輩・後輩の関係であってもよく使用される表現です。

どういうことか

우리とは「私たち」なのか、「私の」なのか。「私たち」寄りの表現を「私の」の範囲まで拡張して使用しているのか、または「私の」寄りの表現を「私たち」にまで拡張しているのか。今のところ持っている結論は、上の二択のどちらでもありません。

우리というのは、必ずしも「私の」「私たち」という特定可能な人格を指すものではありません。우리 とは『私』を含む(中心とする、ではないことに注意)人数不特定の輪で、特定の文脈における苦楽や利害をともにするものだと考えています。ここで言う「輪」とは複数の人間が互いの両手を取り合い円を作っている様子を観念しています。そこに上と下の関係や中心と周縁の関係はありません。


画像: PresenterMedia.com

つまり、先ほどの例の우리 남편(ウリ ナムピョン)とは「私と夫を含む夫婦の輪の一部として位置づけられる夫という存在」という意味で、「私の夫」という個人対個人のような表現とは意味を異にするものなのです。우리 지민이(ウリ ジミニ)も同様に、「私とジミンを含む友人あるいは擬似的な家族関係の輪の中のジミン」と理解できます。家族を思う気持ちに劣らず絶対に幸せになってほしい私たちのジミン。우리の外部の人間よって絶対に傷つけられてほしくない私たちのジミン。大袈裟に言うとそのようなイメージがあります。私も4ヶ月間の留学の中で後半2ヶ月に入ると私を「우리(名前)」と読んでくれる友人ができ、人のあたたかさを感じたのを覚えています。特に兄弟姉妹のいない私にとりこのような人間関係の作られ方は新鮮なものでした。

우리(ウリ)と내(ネ)の境界

しかしこの理解では一人暮らしの人の言う우리 집(ウリ ジプ)を説明しきれません。一人で住んでいるのなら내 집(ネ ジプ、私の家)と言った方が正確なはずです。これに関してはあくまで憶測の粋を出ませんが、家とは一人で独占的に使用・消費するモノ(消しゴム、テイクアウトのコーヒーなど)とは異なり、複数人で食事や生活を共有する機能を潜在的に備えた空間であるために우리が使用されるのではないかと考えています。集合住宅の名前も知らない隣人たちや月に一度しか会わない大家さんとの関係を우리の輪にあてはめて우리 집(ウリ ジプ)と認識しているわけではないということです。逆に消しゴムやテイクアウトのコーヒーなど完全に一人での所有、消費が想定されるようなモノについて우리で表現しているパターンは見たことがありません。それぞれ내 지우개(ネ ジウゲ)、내 커피(ネ コピ)、あるいはシンプルに내꺼(ネッコ 私の)でしょう。

家が우리でモノが내ならば車はどうなのか。船舶はどうなのか。個人名義で所有している土地はどうなのか。まだまだ調査の余地はありそうです。

バックボーンにある「擬似家族」という感覚

このような韓国特有の우리の感覚、共同体の感覚の背後には「擬似家族」という概念が作用していると言われています。擬似家族とは血縁関係のない人間関係においても家族に使う呼称(형 ヒョン、언니 オンニ、이모 イモ 等)を使い本当の家族のように頼り合い助け合うことを意味します。以下の産経新聞はネガティブなトピックにおいて擬似家族を取り上げていますが、擬似家族という感覚自体は価値中立的です。

私は韓国人の中では同性かつ年上の友人が多いのですが、そのほとんどを「〇〇さん」や「〇〇先輩」ではなく「兄」を意味する〇〇 형(〇〇ヒョン)あるいは형(ヒョン)と呼んでいます(初対面では敬語、その後距離が縮まると年上の方から「ヒョンと呼んでよ!」「タメ口ではなそう!」と提案を受けその通りになることが多いです)。極めて親しく交流し深い信頼で結ばれた友人関係には家族さながらの愛情をもって接するという韓国人の国民性も우리という言葉の汎用性・柔軟性おいて大きな意味を持っているのだろうと直感しています。

結びに替えて

韓国人が韓国に言及する時は우리 나라 (ウリ ナラ)、私が日本に言及する時は일본(イルボン 日本)であることにどこか言葉にできない寂しさを感じたのを覚えています。彼ら彼女らは韓国という国を우리という国家単位の「輪」として共有しているのに対し、自分は日本という国を無意識のうちにどこか冷めた目で外から見てはいないか、と。

自分のとっての우리は誰を指すのか。また、自分は果たして誰かの우리の中に含まれているのか。物思いは尽きませんが、今後も日韓という二つの陸地にかかる言語という橋の上を自ら行ったり来たり왔다り갔다りしながら両岸の交通量を増やす活動に資することができれば幸いに思います。

最後までお付き合いいただきありがとうございます。あなたの一日が笑顔であふれますように。

2023年9月、汝矣島漢江公園より麻浦大橋を望む


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