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お金のもつ呪いと愛



お金には呪いをかける力がある。


お金が無いことは不安や恥を生むし、あるのに使わないのは、その対象を「お金を使う価値がない」と見なす行動だ。

同時に、

お金をどう使うかは、相手への愛を示す。


あなた自身やその付属するものに、わたしは価値を見いだすと意思表示をする手段だ。

わたしの育った家は「お金がない」が口癖の母に支配されていた。
父には1000万円に近い収入があった。長女である私は「お金がない」と聞いて育った。
一般的な感覚が分からないけれど、この経済状況なら、子どもに経済状況を知らせないこともできたんじゃないかと思う。少なくとも、毎日毎日お金がないと言い続けるような状況ではなかったと思っている。

ただ今思うと、仕方がなかったのかもしれない。
父はあればあるだけお金を使う人だったから、余裕があると言えばもっと使っていただろう。
祖母が父に残した数百万円の遺産を一年で使い果たしたと聞いた時には呆れた。
たいていの使い道は、大量に食べる肉、道端のガチャガチャ、プラモデル、マンガ雑誌、高級ホテルだった。
身なりに無頓着で、擦り切れた下着とくたびれたシャツを着た父が、綿のワンピースを着た妻子を連れて高級ホテルに泊まる姿には、子ども心に違和感をおぼえた。

そんな父と結婚した母はわたしが10歳の時、父に合わせるのをやめた。目覚めたらしい。それからは、自然派の食べ物、肌に優しい綿の服、母の選んだ本。母が価値を見出したものだけを与えられた。
母の価値観とちがうものを欲しがることは、罰せられる理由になった。

わたしは長女だったので、母が目覚める前を知っていた。10歳になるまでと全く違う生活はわたしにとって苦痛だった。
わたしは母と同じ価値観を持てなかった。
それ以前も、わたしだけ外に出されたりしていたけど、わたしはより一層、家族の中で孤立した。

母の言う「お金がない」は、「自分と同じ価値観を持たない子に使うお金が惜しい」という意味に聞こえた。
通常のスーパーの数倍する自然派食品、のめりこんでいる宗教や趣味には100万単位でお金を出すのに、私の欲しいものには「お金がない」と全く出さない母。
もちろん、今ならわかる。子どもの欲しがる文具や、漫画、かわいい靴下なんかは、飽きるし、長持ちもしない。母の主義には合わないし、役に立たないだろう。母からしてみれば、宗教や趣味は役立つものだった。
父は一家の大黒柱という立場にあぐらをかいて暴力で意見を通す人だったから、父の浪費のあとに残るお金で自然派食品を買い、趣味と宗教に使えば、もうお金は残らなかっただろう。

その度が過ぎる不公平さの理由を、子どもだったわたしは自己否定に向けることしかできなかった。

母の振る舞いと言葉から感じて、じぶんにかけた呪い。

「母と同じ価値観を持てない子どもには、お金をかける価値がない」



こうしてお金を通じて、呪いが生まれた。

わたしが就職すると一切口出しをしなくなった理由を、母はこう言った「だってママのお金使ってないもん」

意地悪く解釈すれば、母は自分の子を「自分のお金を使うやつ」と見なしていたのだ。別に子どもの健康を願って自然派のものを食べさせていたわけではなかったのだ。自分のお金を使って食べさせなければいけない子ども。どうせお金を使うなら、主義に合うものでないと気が済まなかったのだろう。

その言葉を聞いてから、わたしはそれまでよりも強く心の扉を閉ざした。言いぶりからして、まったく悪意がなかった母はきっと今も理由がわかっていないだろう。
言葉での表現が苦手な母と、言葉を深読みするわたしはつくづく相性が悪い。

専業主婦だった母は、父に「誰の金で生活しとるんや」と見下されるのを嫌がっていた。母がわたしにしたのは、まったく同じことだ。
「誰の金で生きているんだ」近年のSNSでは炎上しそうなこのセリフ。言われて心地良い人は少ないだろう。
これもお金を使った呪いだ。

結婚して生活費を同じ財布で管理するようになったとき、自分以外の稼いだお金で生活する事実は不安を煽った。
「〇〇でないと、お金をかける価値がない」条件付きの呪いに苦しんだ。
夫に、お金を出す価値を見出してもらわないと、生きていけない気がした。
いまでも、自分が生きているだけでお金が掛かるのが辛くなる日がある。

いま、夫と二人暮らしの家庭は、決してお金があるわけじゃない。夫が結婚前に働いて貯めていた貯金や結婚祝いでもらったお金で、ぎりぎり一年分の生活費くらいの貯金だ。

でも父のように、お金を稼ぐために昼夜問わず働いて、それを別居の妻子と、道端のガチャガチャにつぎ込むような人間になりたくなかった。
稼ぐ能力があることは尊敬している。
ただ、お金さえあればそのほかの人生すべてが上手くいく訳ではないと、両親はその背中で教えてくれた。
彼らの幸せを私が定義する権利はないけれど、わたしの考える幸せとは違った。

夫は、私の考える幸せを体現してくれる人だ。
お金と夫どちらが大事か、結論は決まっていた。
夫の心が壊れそうなら迷わず好きにしていいと思った。だから、いまのフリーランスと非正規雇用という働き方に悔いはない。

悔いはなくても、すこしずつ貯金が減っていくのは心地良い感覚ではない。不安で心がざわざわする。

学ぶにも、商売を始めるにも、新しいことを始めるには、お金がかかるのだ。

それでも、わたしは、価値を見出したものにお金を使うことを拒否したくない。

価値観が違うからこそお互いが価値を見出したものを認めたい。
(これを実行できる夫の人柄に感謝しかない。)

相手が価値を見出した「大切なもの」「好きなもの」にお金を出すのを禁ずるのは、相手の価値を否定する行為だと感じるから。

裏を返せば、お金を共有する関係性で、相手の望むものにお金を使うのは、信頼を込めた愛のある行為だと思う。
限りあるものをどう使うか。
そこには「大切に思っているよ」「信頼してるよ」「尊重したい」そんな願いが込められている。

「あなたが価値を見出すものに、わたしたちのお金を使おう」


これは子どもの私と、大人になった私の願いを込めた最大の愛情表現だ。


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